ゆったりと生きたい

私も若くないし~~~
しんどい時もあるけどゆっくり生きようと思う。
日記代わりのブログです。

新しいデイケア

2011-04-28 | 家族
今日から、ハハ様の新しいディが始まった。
私の方もなんとなく緊張していた。
予定より15分位早くお迎えが到着した。
ハハ様には、『お風呂に入れてくれるし、お昼もおやつも出してくれるし。
時々、お掃除をしてあげるだけで良いとこだよ。』



そう伝えてあるから、あずみ苑の大きな施設の掃除婦に雇われたと思っているかも。
前日に新しい、下着をバッグに詰めてあげた。
入れ歯を掃除するブラシも入れた。
透明の可愛いビニールバッグは、ニィニィがずっと以前に敬老の日に、
ハハ様にプレゼントしたもの。
良いものは使うのもったいないとほとんど使わず箱にしまったまま。
一人で通っていた老人クラブのお風呂にも持って行くように言ったら、
『盗まれると厭だから・・・・』そう言っていた
バスタオルもガーゼのように薄く擦り切れたようなものを持って行っていた。
銭湯に行くときでさえそれを持ち歩く。
私、一緒にいてみじめっぽく思えて、厭だ。



ハハさまは、そういう点は見栄っぱりでなくて捕られても失くしても惜しくないものを
選んでいるのだろうと思うのだけど・・・・。
新しくてきれいなものは大切に段ボールにしまって置く。

出かける支度は、出来るだけ可愛くした。
しまって置いた母の日のプレゼントに買った、新しい靴も出してはかせた。
あずみ苑は靴を履き替えることなくずっと履いて出た靴で過ごすからね。
足元くらい装うネ、と言うと照れくさそうな様子だった。




もう、節約はしなくていいょ。
私も、60歳を過ぎてから自分のことを振り返って、
やはり同居している親子は似ているところもあって何でも取っておく。
そして、その物に振り回されるような生活になっている。
しまって置いている間にも古ぼけて時代に合わなくなってきているものもある。

ハハ様の教訓を心にとめて、せめて私だけでも大いに老後を楽しもう。
贅沢は決して出来ないけど、節約はもうしないよ。
年金は全部、生活を楽しむために使おうネ。 ハハ様。






銭湯

2011-04-28 | 家族



ハハ様の介護に携れる代替要員のいない我が家にとって公共の老人施設は頼みの綱だ。
家のお風呂が嫌いで私に銭湯に同行してもらうことを望んでいるハハ様。

一緒に行ってもカラスの行水で、さっさと出て来る。
私もハハ様をほおっておけず中途半端の状態で風呂から出て、
生乾きの髪のまま北風の中を歩いて帰ってくる。
家に帰ってもゆっくり出来ないし、買い物、夕食の支度と日常生活が待っている。

私は、銭湯は好きでない。
どちらかと言うと、ゆったりと寝る前にお風呂につかりたい。

ハハ様のためと思って好きでない銭湯にも付き合うけど、
自分と同じように銭湯が好きと思いこんでいる。

湯船につかりながら、
『お金を払っても銭湯に来る価値があるねぇ~~~』
とハハさまはのんきなものだ。

はぁ~~~~~。


ランチ会

2011-04-26 | その他


若い頃からの友達とランチ会をした。

思いではちょっと前の事のように鮮明に記憶しているから不思議です。

皆、幸せすぎるくらい恵まれた生活をしていると思う。

語らないだけで、皆、それなりの苦労もしているとは思うけどネ。





退職、結婚、出産、子育て・・・・

それぞれが別々の道を進んで行って今、全員が還暦を過ぎたことになる。

時々だけど、会って語り合う仲間たち。








あの時々に、別の選択をしていたら・・・・・・

別の生活があったのだと思うけど

目に見えないレールに乗って現在にたどりつき、私たち再び、集いました。





これからどこに私たち進んで行くのでしょう。

又、会う日が楽しみです。







京王プラザホテル




ミュージカル

2011-04-24 | 独り言

昨日、劇団『四季』のミュージカルを4人で見に行った。
嵐のような雨が降りつけて、私にとっては珍しいお天気だった。
以前、ゆりかもめに乗った時、独特のライオンの絵が描かれている劇場を見て、
いつかあの劇場に行ってみたいと思った事があった。
そして、思いがけず友達のお誘いで、私の夢の一つが実現した。



題名は『夢から醒めた夢』
子供向けのミュージカルと想像していたが、内容もさすがだと思った。





不思議大好きな少女が、
一日だけと事故死した少女と入れ替わり霊界を体験するという夢。

事故死した少女も残った母親にさよならを言いたくて生きている世界に一日だけ戻る。
そして悲しみにくれる母親を慰める事が出来ました。

『お前らはみんな自分のことしか考えないだろう!!』

霊界の役人がいつも言っている言葉は胸にぐさりと来た。
戦争、飢え、病気、自己、自殺・・・・
いろいろな理由で死んだ人達の悲しい思いが歌になって考えさせられたけど、
良いことはよいのだと素直に思えるストーリーだったのが嬉しい。

生きている少女と死んだ少女との友情も爽やかだった。
美しい歌声を聞きながらポロポロと涙がこぼれて来てしまった。
こんなにも涙が残っていたのかと思われ泣きながら照れる。



ミュージカルが終わった後、友達に言った。
『まるで私のために作ってくれたミュージカルだったわ』と。
友達も『そうよねぇ。おねぇさんのための劇だったわ』と言ってくれた


東日本大震災でたくさんの人が亡くなった。
大切な子供を失ったお母さんも沢山いることだろう。

ミュージカルのように、亡くなった人がひかりとなって光の国に行き、
幸せに楽しく生活出来るというストーリーを私も信じたい。


このミュージカルの内容と夢、光り(ひかる)・・・・・これらの言葉、
不思議なくらい私の思いと一致しているのは何故だろう。
 
 


赤川次郎書下ろしファンタジーロマン。
この作家は中学生だった時に娘がファンでほとんどの本を読み尽くしていたはず。
私の不思議体験の一つが増えた感じがする。

そのうち、『ライオンキング』も見てみたい。
ひとつ私の夢も増えました。




開演前のロビーパフォーマンスも楽しいものでした。
童心に帰って楽しむ私を友達、冷やかしながら見ていました。










ショートステイ

2011-04-21 | 家族



今日、介護福祉施設利用の手続きをした。
ショートステイを利用すれば私も旅行なども少しは楽しめるかもしれない。

相変わらず他人の世話になりたくないと主張するけれど・・・
買い物もきちんと出来なくなりつつあるし
食事作りも出来ないのにそんなハハ様を置いて家を空けるのは大変な勇気がいる。

どうしても宿泊しなければすまない事があった時、
友達の好意に甘えて様子を見てもらっていた。
息子に頼んで会社の行き帰りに寄ってもらっていた。
それでも一人で何でもできると威張っているハハ様。

『夜、怖くて仕方ない・・・・。』
宿泊地からかけている電話に言うハハ様。
それでいて自分は一人で何でも出来るから・・・他人様のお世話にはなりたくない。

要するに、私が作ったものを食べているのは世話になっていることとは思っていないみたい。
家のお風呂が嫌いで銭湯にまで私に一緒に行ってもらっているのに一人で何でも出来ると言う。
妹たちに来てもらおうかと言うと、厭がって拒否するから私の負担が大きくなる。

一人の力には限界があるし、
介護は手抜きをしなければ続かないことをハハ様との生活を通して知っている。
一生懸命になればなるほど空回りするし、とんでもない方向にも行ってしまう。
過去の体験で私は出来る限りハハ様との関わりを少なくした方がうまくいくという
知恵みたいなものを覚えてしまった。
今の所、ハハ様の介護の世話は普通の生活をしているだけなら楽だと思うけど、
これから進む認知症のことなど考えると私の代わりをしてくれる人を見つける、
必要性を感じている。



やっとのこと、3年がかりでマンションなどを経営する会社の福祉施設との契約が済んだけど・・・・

ケアマからいくつかの施設を紹介してもらい見学し、検討して今日に至った。
ディ契約もそうだったけど、ここまでこぎつけるには時間もかかった。
私たち家族が付いていてもそれ相応に大変なのに独居の老人はスムーズに、
福祉を活用できるのだろうか疑問だ。


福祉は待つのでなく求めるもの。
本当にそう感じる。

契約するだけでも大変なんだから、ハハ様にはきちんとディやショートを使って欲しいものだ。







だんだんですネ~~

2011-04-19 | 家族
最近のハハ様ですが。



今朝は早朝から玄関のドアベルがうるさい。
ハハさまが出入りするたびにドアベルが鳴りドアがガチャンと鳴る。
一体何時だと思ってるのだろう?
夜が明けるのが最近、早いのでハハ様の目覚めも早い。
時間はお構いなし。
お日様とともに起きお日様とともに寝るのがハハ様の健康の秘訣かも。
でも、迷惑。まだ5時だもの。

私、『今日は生ごみの日でないけど・・・・捨てた?』
ハハ様 『みんなも出しているから捨てたよ。』

今日は生ごみでないから回収して来てよと、言うと大声で不満を言いながら出て行った。
そしsて手ぶらで帰って来た。
『大丈夫だよ。持って行くから・・・』と言う。


私もゴミ置き場に行くと、今日はいつもより沢山の不燃物が出て山のようになっていた。
これじゃ、自分の出したゴミも選別できない。
前の家が解体をするのでいろいろとゴミが沢山出たみたい。

それにしてもハハさまは、のんきなものである。
私がカッカとなってもシラッ~~~~ってなものだから。
今日がなんのゴミだか分からないのならゴミだししてはダメと言うと、
ふてくされ、もう何にもしてあげないとのたまう。

日付や曜日の感覚もないし、ゴミの分別もすっかり分からない。
そのくせ、何故かゴミ捨てをやりたがる。
責任を果たして何か家の為になっていたいという思いなのかもしれないが。



洗濯もそう。
ハハ様の希望で我が家はいまだに全自動を使えないでいる。
二層式の洗濯機の方が使い勝手が良いと全自動の購入を反対したのは15年くらい前だったかな。
その頃、ハハ様は洗濯、掃除、ゴミ捨てを担当して頑張っていたからハハ様の意見が通った。

いつの間にかそのような担当もうまく出来ないでいる。
本人はきちんとしているつもりだから、こちらが口出しをすると面白くないらしく、不機嫌になる。
認知症と分かるまでハハ様のメチャメチャナやり方に何度となくもめた。
まさか、しっかり者のハハさまが認知症なんて考えもしなかった。

夫などは、ハハ様に直接言えないものだから、そのたびに私の所にやって来て、
洗剤入れないで洗ってるよ、水を充分入れないで回してるよ、ダイヤルをすぐに停めてしまうし雑巾と一緒に洗っている・・・・などと言いつけに来る。
ハハさまが不機嫌になるのを恐れているのだ。

こういった点が、やっぱりオットはマスオさんだ。

食器も洗ってくれる時があるけれど、カップにコーヒーの跡が残っていたり、
ケチャップやカレーの色が皿に付いたまま、それも良く拭かないで食器棚に納める始末。
なべ、食器を台布巾で拭いているのを見た時はびっくりした。

きっと、今日は一日中ふてくされて口をきかないで部屋に籠もっているだろう。

何もしないでいいから、ゆっくりゆっくり楽しんで生活をして欲しいものだ。






















故郷みたいな所

2011-04-18 | 独り言
地方暮らしをしたことのない私が、初めて東北の地に転勤が決まったのは私が20代の頃だった。
その地がとても気に入って・・・私たちは永住をするつもりで新居を建てた。
若かったし、子育てをするのに最適な土地と思ったから。
東北の人々の人情はあつく親戚もいないこの土地で暮らすことに不安はなかった。
それが若さだったかも知れない。

7年くらい住んだだろうか、夫の東京勤務が決まり、夫は約束に反して転勤を受け入れた。

私、自分たちで作った家を離れる気はなかった。
夫にも何とかして、又、仙台に戻ってくれるものと期待した。
それで単身赴任を一時的にすることになった。


夫一人で埼玉の私の実家、というより結婚した時に建て増しをした自分たちの部屋に戻った。
離れ離れの生活は不便でもあるけれど私は自分の実家に戻る気になれなかった。
理由はいろいろあったけれど・・・・・。

でも、私の意に反して夫の起こした金銭問題のために仕方なく私も埼玉に戻ることになったのだ。
東京勤務になった夫の身の回りで起こり始めた諸問題、特に金銭的な問題は別居を続けるのにはリスクがありすぎると私は感じた。

いやいや戻って来た埼玉は私にとってはとても居心地も良いものでなかった。
周囲の人たちは東北の地に慣れた生活とは全く違う。
便利だけどお互い干渉しあわないで生活しているようで淋しかったのかも知れない。

後になってこの土地に嫁いできたパートで知り合った職場仲間が言っていた。
『嫁いで15年経つけれど、嫁ぎ先やご近所からはいまだによそ者扱いをされている・・・・』
そう言って苦笑していたのを思い出す。

歴史の残るこの町の住民は自分たちを生え抜きと言い、他の土地から移り住んで来た人達をよそ者というらしい。
私がなかなか馴染めなかった理由も納得出来た。

けれど、住めば都とはよく言ったものだと思う。
馴染めない、住みにくいと思っていたこの土地で、家を改築したり働いたり、子供の学校のお世話役を引き受けているうちに友達も増え、時間はかかったけれど住みやすくもなってきた。

仙台から戻り、すぐ、又、仙台に行くつもりで生活していた私も東北の地は遠い存在になっていったかも知れない。
定年になったら又、地方暮らしをしてみたいという気持ちもあってずっと、貸家として持っていた。

家を貸すのは最後だろうと思って貸した60代のシニアの夫婦が悪人だった。
60代で一軒家を借りるのも、それも年金の額に比較すると家賃は高い。
私、何かピンと不安を感じたのが事実で、斡旋してくれた不動産屋に断るように言った。

それが・・・・・風邪気味と日頃の花粉症の悪化状態で蔵王の山歩きをしたのが悪かったのか、ひどい眩暈に襲われて仙台の脳外科に入院してしまった。
以後、しばらくは細かい事が私の体調に悪くて契約の事など、全て夫に任せてしまったのがいけなかった。
この夫、オットットと私がふざけて呼んだことがあるけれど仕事しながら細かい神経が使えないのは分かるが、人をすぐに信じ込むいい加減な性格なところもある。
その性格のためにとんでもないトラブルがよく起こったから、善良な性格と思うけどオットットな夫なのだ。
人を疑わない性格は騙されやすく、利用するために近付いてきた人たちには恰好な獲物に見えるかもしれない。
結局、私たちの家も彼の性格を利用されたような結果になってしまった。

最初、断わったこの夫婦、手を変え品を変え・・・
今度は社長をしていると言う妻の名義で借りたいと言って来た。
不動産屋もずいぶんと夫に借主の良い点を宣伝したみたいだ。
リホーム業の経営者である奥さんの文字も旦那の悪筆に比べると立派に見えるし・・・・と、簡単に契約をしてしまった。

後の、まつり・・・
家賃は払わない、家にケチを付けて、改築を迫る。
門扉が低いから物騒だと2メートル以上の高さの塀を作るように迫ってくる。
あちこちと壊して(?)修理をしたと言って修理代を請求してくる。
大切にしていた庭の芝生をはがしシャベルカーを入れて掘り起こし庭木を入れ始める。
庭に石を置いたり、何の目的なのか穴をいくつも庭に掘りはじめた。
家賃不払いの状態で入居しているのならまだしも、私たちの家を改造するような真似までして来たので許せないと思った。
それで、弁護士を頼み法律に訴えることにしたのだ。
でも・・・・・
一般市民を悪の手から守ってくれると思っていた法律も警察も、悪いことに慣れている人間にとって逃げ道があることを知りぬいているのだだからお手上げ状態だった。
簡単に済むとおもった裁判も、最高裁まで持ち込まれ4年の歳月が流れた。
私たちが結局、1審、2審、そして最後の最高裁でも勝利したけれど、満身創痍。
彼らもそれなりに費用はかかったと思うが、私たちに不利なのは遠いと言うこと。
1回の審議に出席するたびに交通費、滞在費、そして友人、知人に挨拶をしたり・・・・費用がかかったのは痛かった。
結果、被告は逃亡ということでかかった費用は泣き寝入りする結果だった。
これも面倒なのは嫌いなオットットの性格もあるし私もこれ以上、関わりたくないし・・・・。

裁判に持ち込む目的で上仙した時、住んでいた私たちの団地に行ってみた。
悪い彼らに乗っ取られた我が家を離れた小学校近くの空き地から眺めた時、
その時は、晴れ女の私でもどういうわけか冷たい雨が降っていた。
最近では、私の気持ちの状態が良い時に晴れるのかもしれないとも思うけど。
広すぎる空き地、そして人気のない通り。
住んでいた頃、広々として自然がいっぱいの仙台のこの地が大好きだったのに・・・・・
長年の月日の流れは人の心も変化させるものらしい。
よく・・・こんな淋しい所に住んでいたなぁ~~~~こんな気持ちになったのも事実だった。

『こういう経験が、仙台の家を手放す気持ちにさせたのだと思うょ。あの人たちにこういうことをされなければ、私、仙台の家を手放さす気にならなかったと思うから。』
悪人、悪人と思っていた借家人の夫婦、その後離婚して夫の方は、行方知れず。
妻の方は夫よりはましな人だったけど、不況で家業のリホーム業もおもわしくなく細々と生きているとか相手側の弁護士が言っていた。
私、土曜日のサークルで気の合う友達にこう話しながら食事をした。
そしてその、翌週の金曜日に大地震に遭遇した。

もしかしてあの、悪人と思っていた彼らは、私に仙台の家を手放した方が良いということを教えてくれた守護神?

今、家を手放した後、不思議なくらいホッとしたのも事実です。
管理する手間もいらない。固定資産税を払わなくてもいい。結構、土地が広かったから税金が負担だったのかもしれない。
若かったころは高速道路を飛ばしすぐに仙台に行ったものだけど、やはり60代は厳しい。
仙台に車で行くためには1泊はして、温泉に浸からなければ疲労が残る。
新幹線に乗れば2時間くらいで着くのですが、往復二人で4万円は年金暮らしにはきついし。
まぁ、だんだんと不動産を持ち続けるのに負担に感じていたのでしょう。
仙台の友達には、離れていてもよく会いに行ったし、電話で話もしたけれど、彼らと疎遠にならなければ・・・・そんな気持ちだけです。 

私って自分でも可笑しいくらい、物事に変なけじめを付けられる。
まぁ、いいか~ 何とかなるサ・・・・












救援物資

2011-04-04 | その他
ようやく私の周囲でも日常に戻りつつある。
米、牛乳、卵、ヨーグルト、パン、カップめんなどスーパーやコンビニの棚から消えていたが、
十分とは言えないけど手に入るようなってきた。
私の風邪?症状もよくなってきている。

それで、昨日は夫に近くのディスカウントショップに連れて行ってもらった。
レトルト食品、スープの素、餅、そして、消毒薬、ウェットティッシュ、化粧落とし、マスクなどを買った。
早速、大きめの箱に詰めて仙台の友達に送った。
水道が復旧していないと聞いていたのでこういったものになった。
そして、Ledの懐中電灯と湿布薬を同封した。
無理をするとすぐマッサージ師にかかる友達のために。

あの地震からすでに3週間以上たって仙台市内はおそらく物資も出回っていると思うし、
送った内容は私の独りよがりの押しつけになる可能性が大きい。
被害がなかったと聞いたけど、被災者の家族を家に呼んで一緒に暮らしている彼女の気概にエールを送りたいから。



計画停電

2011-04-01 | その他
計画停電の予定があった日、覚悟していても我が家は何故か大丈夫だった。
ハハ様のデイのお迎えの時(4時ころ)我が家が明るいのでお世話する人が羨ましがっていた。
何回か計画停電の予定日をそうやってやり過ごした。
駅のそばだから停電をさせないのかもしれないと勝手に思い込んでいた。

突然、プツリッ~~~!!スゥ~~と真っ暗になった。
懐中電灯を探すため暗闇の中をウロウロとしてしまった。
一応の計画停電のためにローソクなど用意していたがマッチがない。
テレビが消えて音のない部屋がとても不自然に感じる。
ラジオもあるが電源もないし・・・電池を入れれば聞けるのだけど、
地震の初期段階で出遅れてしまった我が家には電池すらないのだ。
エアコンも使えないし電気がなければストーブもお風呂も使えない。
全く日頃の危機管理が出来てないのをつくづく反省する日だった。
余震が続いていたのでなんだか体がいつも揺れた感じがするし、
そのバランスで暗闇の階段を上り下りする時の恐怖たらない。
いかに灯りの大切さ、そして昼間の太陽のありがたさを実感した。

夜、8時ころ停電を知った息子が帰宅した。
LEDのランプやら懐中電灯をいくつか持参してくれた。
そして電池の充電セットも2組持って来てくれた。
ランタンランプを部屋の隅に何個か設置すると明るい。
ラジオからの音も聞こえてとても良い感じ。
レストラン風の灯りの下で家族で夕食をとるのも乙なものだったけど、
これはあくまで皆、無事で元気で一緒にいられるからのこと。
被災者の人たちを考えると・・・・又、自分の恵まれた環境に感謝です。

9時ころ復帰して明るさが戻る部屋だった。


それにしても寒くてすぐにストーブをつける私でした。