Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

フーコー・インタビュー

2013-01-31 13:47:50 | 日記

フーコー、インタビューでの発言(1982年10月25日、アメリカで);

★ わたしは著作家、哲学者、名代の知識人ではありません。教師であります。ひどくわたしを困惑させる社会現象があるわけですが、それは1960年代以降、若干の教師が型どおりの公務を果す公人になっている点です。わたしは、予言者になって「どうか腰をおろしたまえ、わたしの発言の中身はきわめて重要なのだ」なんて言いたいとは思わない。わたしは、われわれの共通の仕事を論じるためにやってきたのです。

★ わたしが何であるかを正確に認識する必要があるとは思いません。人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。ある本を書き始めたとき結論で何を言いたいかが分かっているとしたら、その本を書きたい勇気がわく、なんて考えられますか。ものを書くことや恋愛関係にあてはまる事柄は人生についてもあてはまる。ゲームは、最終的にどうなるか分からぬ限りやってみる価値があるのです。

★ かなり長いあいだずっと、人々はわたしに、将来何が起こるかを話してほしい、未来のための計画を教えてほしいと頼んできた。われわれがよく知っているように、そうした計画は、意図はきわめて善意にあふれていても、抑圧の道具・手段になっている。ルソーは自由の愛好者であるのに、フランス革命のなかでは、社会的抑圧の一つのモデルを作りあげるために使われた。マルクスはスターリン主義ならびにレーニン主義を知れば、恐れをなすかもしれない。わたしの役割は――そしてこれはひどく思いあがった言葉なのですが――、人々が彼らが自由であると感じているよりはるかに自由であるとか、人々は歴史のとある時期に築きあげられてきた若干の主題を真理として、明証として受けいれているとか、そして、このいわゆる明証なるものは批判と破壊の対象となりうるものであるとか、を人々に明らかにすることです。人々の精神のなかで何かを変えること――これが知識人の役割なのです。

★ わたしの目標の一つは、人々の景観の一部分となっている多くの物事――人々はそれらを普遍的なものだと考えているわけですが――が、実は、きわめて明確な歴史上の変化の所産であることを明らかにすることなのです。わたしのどの分析も、人間の生活 [存在] にかんする普遍的必然という観念に対立するものです。わたしの分析は制度が持っている恣意性を明らかにし、われわれが今なおいかなる自由の空間を享受することができるか、どのくらいの変化を今なお生みだすことができるか、を明らかにするのです。

★ わたしの著作は、それぞれわたしの自叙伝の一部です。

★ わたしのさまざまな本のなかでわたしは変化を分析しようと実際努力してきましたが、それは具体的な原因を見つけ出すためではなくて、相互に作用していたすべての諸要素を、そして人々の対処を明らかにするためでした。わたしは人々に自由があることを信じています。状況は同じであっても、それに対処する人々の仕方はまったく異なるのです。

★ ヒューマニズということでわたしの気がかりなのは、ヒューマニズムがわれわれの倫理の特定の形式を、どんな種類の自由にもあてはまる普遍的モデルとして提示するという点です。わたしの考えるところでは、ヒューマニズムのなかに、つまり左翼とか中道派とか右翼とか虹のような色合いの政治のあらゆる側でこれがヒューマニズムだと独断的に主張されている、そうした意味でのヒューマニズムのなかにわれわれが想像しうる以上に、われわれの未来には、より多くの秘密、より多くの自由の可能性、より多くの発明があるのです。

<ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫2004)>






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