今日の読売編集手帳は言う;
《室町時代の歌謡集『閑吟集』に、〈昨日は今日のいにしへ 今日は明日の昔〉とある。いつの世も日々の出来事は、「いにしへ」の彼方へ足早に去っていく。とはいうものの、である◆一寸前なら憶えちゃいるが/一年前だとチトわからねエなあ…ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』で歌ったが、自民党が惨敗を喫した衆院選からは、まだ1年もたっていない》(引用)
ぼくたちの記憶喪失症は、着々と進行中であるらしい。
“自民党の惨敗”を忘れた人々は、“自分の1年前”を覚えているのだろうか。
たとえば“このブログ”についても、1年前に、Doblogからgooへ移行したのであった。
Doblogが、勝手に先方事情で“サービスを停止した”からである。
もちろんこれは、ささいなこと、であった。
ささいでないことについての記憶について天声人語が書いている;
《▼1940年、ソ連軍の捕虜になったポーランドの将校ら約2万人が銃殺された。ソ連はナチス・ドイツの仕業と主張した。真相は長く伏せられたが、ゴルバチョフ時代の90年になってやっと認めた。今年は事件から70年の節目になる▼ロシアでの式典には、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ氏(84)の姿もあったそうだ。事件で父親を失った遺族である。長く温めて完成させた「カティンの森」は日本でも公開されている。歴史を次の世代に渡すのが使命、という気迫が映像に満ちている▼ワイダ氏の思いに、「人間の歴史は虐げられた者の勝利を忍耐強く待っている」というインドの詩人タゴールの言葉が重なり合う。犠牲者も遺族も、ソ連の「残酷と虚偽」に虐げられた。「勝利」とは、史実が世代を超えて記憶され続けることだろう▼映画へのメッセージで、監督は「9月17日」を知らない若者を嘆いていた。ソ連軍がポーランドに侵攻した日である。国は違っても、伝え継ぐ難しさは国境がない》(引用)
これは、“ポーランド”という国の話である。
いったい誰が(つまり“日本人”である誰が)、1940年のポーランド人へのソ連の虐殺を“記憶する”だろうか?
この問いは、“いったい誰が現在のパレスチナにおける虐殺を記憶するだろうか?”という問いとなる。
すなわち、“固有名詞”は、いろいろ“代入可能”である。
しかし、そもそも、これらの<虐殺>は、記憶される前に、“認識されて”いるのだろうか?
たしかに、ひとは、“ヒロシマ・ナガサキ”についても、“アウシュビッツ”についても、知っていると思っている。
しかし“それら”は、“知っているのに忘れられた“のだろうか?
<虐殺>は、これら有名事件だけはない。
《人間の歴史は虐げられた者の勝利を忍耐強く待っている》という“タゴールの言葉”は、何を“意味する”のか?
《「勝利」とは、史実が世代を超えて記憶され続けることだろう》とか、
《国は違っても、伝え継ぐ難しさは国境がない》
という天声人語氏の“意見”は、何を“意味する”のか?
こういうことを“言う”(書く)ことが、<史実が世代を超えて記憶され続ける>ことに“なる”のだろうか?
たしかに、ここに上記のように“ぼくが言う(書く)”ことも、“抽象論(観念論)”である。
しかし、ぼくにとって、上記天声人語で重要なのは、《映画監督アンジェイ・ワイダ氏(84)の姿》である。
しかもぼくは「カティンの森」という映画を見ていない。
ぼくが見たのは、「地下水道」(1956)、「灰とダイヤモンド」(1958)、「二十歳の恋」(オムニバス1962)、「大理石の男」(1976)などである。
ぼくは「大理石の男」を見たときがっかりして、ワイダへの関心をなくしていた。
ぼくにとってのアンジェイ・ワイダは、「灰とダイヤモンド」である。
つまり1本の映画が、記憶された。
記憶というのは、具体性においてあり、すべてが記憶されるのではない。
それは恣意的であり、偶然的でもあるだろう。
だからこそ、なにを記憶するかが、重要なのだ。
すなわち、“1本の映画”でさえ、軽んじられない。
もし<歴史>ということを“考えられる”なら、あらゆる事件から、なにを現在において記憶しているかが、問われる。
あるいは、自分が記憶していなかったことを、どうやって“知る”かが問われる。
いま思い出せないのだが(記憶が不明瞭なのだが)、むかし大江健三郎が《記憶してください、私はこのように生きてきました》という言葉を引用していたのを、“思い出す”。
《一寸前なら憶えちゃいるが/一年前だとチトわからねエなあ》(笑)
記憶してください、私はこのように生きてきました、生きています。
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