Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

知らないふり

2010-04-09 07:15:21 | 日記


内田樹ブログが普天間基地および日米関係について書いている(“従者の復讐”)。

その長いブログで内田氏が言っているのは、以下のことにつきる;

《けれども、自国の没落を代償に差し出しても、アメリカの滅亡を達成することは日本人の歴史的悲願なのである。
私はさきに日本人は「アメリカの軍事的属国であることを知っていながら、知らないふりをしている」と書いた。
これにはもう少し追加説明が必要だ。
日本人がほんとうに知らないふりをしているのは「日本が従者として主人におもねることを通じて、その没落を念じている」ということそれ自体なのである。
私は沖縄の基地問題はこのような分析的な文脈で考察すべきことだろうと思う。》(引用)


たしかに、このような“考察”は、あまり“言われていない”だろうから、こういう文章を“面白い”と思ったり、こういう文章を“不愉快だ”と思う人もいるだろう。

ぼくは、どっちでもない。
つまり“面白く”ない。

そもそも内田氏の“ロジック”の原則は、《人間は「自分の得になる」と思うことしかしない》ということである(この文章中にも書いてある)

しかし、こういう“原則”を、“リアルだ”と思う(考える)ことが、すでにぼくにとっては“現状維持(保守)”である。

だから、内田氏が、“面白い”と思う人は、たんに“通俗”である。
ぼくは内田氏が、“まちがったことを言っている”と言うのではなく、“通俗”だと思う。

ただし、この文章を、ぼくが取り上げる気になったのは、《知らないふりをする》ということ自体である。

《知らないふりをする》というのは、内田氏も言っているように、《知っていながら、知らないふりをしている》ということだ。

しかし、ぼくらは、“ほんとうに”知っているのだろうか?

たしかに、《知っていながら、知らないふりをしている》ということも、たくさんある、いやになるほど。

しかし、ぼくたちが、たんに、《知らないこと》もおびただしくある。

つまり、“知りもしないのに、知った気になっている”のである。

現在“ぼくたち”が失っているのは、むしろ<こっち>ではないだろうか。

すなわち、<知ること>の革命性である。

すなわち、知ることが、何かを、根底的に変えることを、である。



たとえば、こういうことである。
あなたは、
《人間は「自分の得になる」と思うことしかしない》
ということについて、
何を“知っている”のか?




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