ひとはみな、<顔>がある。
たぶんぼくらも、日常生活で“出会う”他者(他人)を、<顔>によって識別している。
そして、<顔>によって記憶している、生きている人も死んだひとも。
すぐそのひとの<顔>を見れるひとも、なかなか見れないひとも、決して見れない(もうにどと)ひとも。
しかし、ぼくらは、“それらの顔”を、よく見ているであろうか。
恋する男が見ているのは、“女の顔”だろうか(逆でもよい)
テレビで見る“有名人の顔”でさえ、ぼくらは“見ている”だろうか?
あるいは、“テレビの顔”は、“家族の顔”より、リアルである。
ここに、ある有名人の顔を描写した文がある。
描写された顔を持つ人はアドルノ、描写したひとはマーティン・ジェイというアメリカの思想史家である。
ぼくはマーティン・ジェイという人に『暴力の屈折』というエッセイ集で注目した。
アドルノについてはよく知らない、だから、ジェイの“解説書”を読もうとした。
マーティン・ジェイ『アドルノ』によって、(どれだけ充分であるかわからないが)ぼくは“二人の”人間(ジェイとアドルノ)を知ろうとする。
実はこの本は、何年か前にいったん読了した。
しかし、いまいち、この本に書かれていることを受け取りそこねたという、思いがある。
それで昨日その書き出しを再読した、この部分は最初読んだときから印象的であった;
★ ズーアカンプ社がアドルノの著作のパンフレットによく使うアドルノのよく知られた写真があるが、これは彼の個性を、いやそれどころかその生活史を実に印象的に表現している。中年も終わりにさしかかった頃に撮られたこの写真のなかでアドルノは、左の方を向いた横顔を見せ、どぎついライトが前額部と一方の輪郭だけを照らし出している。この写真は彼の眉の上ほぼ2インチのところでカットされているために、われわれの注意はいやでも彼の顔に浮かぶ物悲しげな表情に惹きつけられることになる。
★ その唇は力なく、ほとんど気づかれないほどかすかに開かれ、明らかに乾ききっている。こちらがわに見える眼は瞼が重く垂れ、その凝視は内面に向けられている。後ろに傾いた彼の顔は、おのれ自身の不幸な思いにとらえられた人を思わせる。ほかの写真では時どき掛けている眼鏡も、はずされている。まったく自分の思いにとらわれて、我にかえる気配もない。この写真の生み出す相乗効果は強烈であり、抑えられた悲しみのなかで、おのれの人生の言うに言われぬかずかずの恐怖に想いをひそめている一人の男の姿をわれわれに示している。
★ 彼があれほど苦心して解読しようとしていた社会の相貌が、彼個人の容貌に写しとられているのである。彼は、かつてサミュエル・ベケットについてこう書いたことがある。「どれほど涙を流してみても、鎧を溶かすことはできない。涙の乾いた顔が残るだけなのだ。」
<マーティン・ジェイ『アドルノ』(岩波同時代ライブラリー1992)→この本は現在、岩波現代文庫に入っている)
以上の文からぼくが受け取るのは以下のことである;
A:写真を見ること
B:顔を見ること
C:それを描写すること(見ることの“正確”さと、レトリック)
“アドルノの顔”を特権化(特別視)することではない。
すべてのひとに、顔があることを発見する。
その上で、人間には顔以外もある、ということが、(ぼくには)重要である。
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