Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

女が変わらなければ、なにも変わらない

2011-01-31 14:13:41 | 日記



このブログのタイトル<女が変わらなければ、なにも変わらない>というのを見て、いまこれを見ている“あなた”は、いかなるブログを想定できるだろうか?(笑)

べつに、たいしたことは言わない。
が、“ある種の女性”あるいは、“すべての女性”を敵に回す(ぼくがだ)可能性がないとはいえない。

ひとつは、‘あらたにす’の“新聞案内人”コラムにのった歌田明弘というひとの“意見”である、引用する;

☆ 新聞をとり続けるべきかどうかという話を友人などとすると、興味深いのは、夫のほうが(とくにデジタル関係の仕事をしている場合には)「もういらない」などと言うのに対し、しばしば妻が異を唱えることだ。
私の家の場合も、新聞をとるのをやめると言えば、妻は反対するだろう。
夫よりも妻のほうが、情報や社会の動きに敏感だからというわけではない。私ぐらいの世代の女性たちにとって、新聞は情報メディアであるにとどまらず、娯楽メディアでもあり、だからネットなどで情報が得られるようになってもとり続けたいと感じるようだ。もちろん女性だけでなく、新聞を開く時間を失いたくないと思っている男性も多いだろう。
新聞離れしてしまった世代にはこうした反応は期待できないかもしれないが、メディアとしての新聞「紙」の強さは、じつはこんなところにもあるのではないか。そういう意味では「変わらなさ」は長所かもしれないと思う。(引用)


つまりもうとっくにその“使命”を終えている<新聞>を支えているのは“女性”である!

ぼく自身は、何十年も取り続けた朝日新聞を数年前にやめたが、ぜんぜん困っていない。

その理由は、新聞を取らなくても、“ネット”で代替できるとか、“ネット”の方が情報が緻密で高度だナンタラカンタラといった現在流行の論議とも関係ない。

現在の新聞には知性がない―これがぼくが新聞購読をやめた理由だ。
現在の新聞では、まともな文章が読めない、といっても同じだ。

もちろん新聞には、もともと、“はっとするような感性”なぞあったためしはない。
自分の著書で、けっこういいことを書いている人も、“新聞では”、切り詰め・編集されてつまらない凡庸な文章になってしまう。

まさに“新聞を読み続ける女たち”は、<それ>が好きなのである!

もちろん“そういうセンス”の女たちがもっと好きなのは、<テレビ>である。
ぼくが不思議なのは、この“テレビ的感性(センス)”の女たちが、なぜ新聞を”読む“のか?―である。

たまに“文字を読んでいる”自分に自己満足(ああ、ナルシシズム!)したいのだろうか。

“文字を読んでいる”といえば、不破利晴ブログでは、<金原ひとみ>の東京新聞コラムへの不破の“批判”にたいして、普段より多くの(笑)アクセスが集中した。

面白かったのは、その不破ブログに対しての“コメント”だった。
すなわち、<金原ひとみ>という名前は、なぜか、多数の人々を引き寄せる名らしいのだ。

まあ、こういうひとを、“人気がある”というらしい。
現在、この世には、“人気者”がうじゃうじゃいて、その<名>をブログに書くだけで、アクセス数が上がるのである。

まったく“なげかわしい”事態である。
しかし、“金原ひとみ”は、<女>であり、<作家>である。

この場合、金原ひとみが女であり作家であることは、“この世界の条理”にいかに関与するのか?!

また金原ひとみの“読者”や“その名に反応する”ひとびとは、<女>なのか?<男>なのか?

不破ブログおよびそれへのコメントを読みながら、ぼくの<疑問(疑惑)>は、雲のようにわきあがったのであった(笑)

“おにゃんこ”と“金原ひとみ”は、いかなる“差異”をもっているのか!デリダ学者=東浩紀氏にでも、分析していただかねば、ならんのか!

かくいうぼくは、金原ひとみをぜんぜん読んでない(東京新聞コラムさえも)。
そうであってもぜんぜん生きていくのに支障はない。

それは《李忠成の美しすぎるゴール》を見なくても生きていける(ぼくは見たが;笑)のと、“同じ”なのか、ちがうのか?―これが(これも)問題である(つまりクイズ番組の“問い”である)

不破利晴ブログに貼り付けられた“金原ひとみ最終コラム”(なんとそのタイトルは“ハラスメント”である!)の文章を読むと、自分の出産について書いてある。

たしかに、“私はこれから子供を産む”ということを書けるのは、<女>だけである。
これは、(ぼくのような)<男>にとって、“おどろくべき”ことなのである。

ここで、“おどろかない”男は、バカであるか、鈍感である。

なによりも“おどろくべきこと”は、<男>がみな<女>から産まれたことである。

ゆえに、

<女が変わらなければ、なにも変わらない>

この結論への論旨の“短絡”は、これからのこのブログによって埋めていく“べき”ことである。(あ~あ)

なによりも困ったことは、この“歳”になっても、“ぼく”が<女>への“あこがれ”を払拭できないことである!








*上記ブログとは(たぶん)関係ないが、昨夜NHK‐BSでニーノ・ロータの特集をやってたね。
ぼくはこの番組を通して見なかったが、最後のトランペット奏者をフューチャーしての“太陽がいっぱい”のテーマはよかった。
(だがエンディングの“8 1/2”は、イタリア的祝祭とはほど遠かった、この国には“人生は祭りだ”といえる肉体がない)

前にも書いたが、このところずっと、ぼくの生活のバックグラウンド・ミュージックは、“太陽がいっぱい”である。
ただし、“テーマ”ではなく、アラン・ドロンが市場をさまようシーンで鳴っていた音楽。
たしかに、ニーノ・ロータは、“20世紀の人生の”メロディーを書いた。






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