どうもこのところ、仕事に行った日の夜は疲労がはげしく、ブログを書く気力がない。
このぼくのブログの“主力”である引用文を入力する根気がないのだ。
それで、今日もブログを“お休み”しようかと思ったが、今日ずっと頭にあったことを、メモ書きのように書くことも許されるだろう(だれに?;笑)
すなわち、<雪沼>と<神町>である。
この“地名”を聞いて、すぐわかる人は、2種類の小説を読んだことがある。
ぼくはたまたま最近、この地名にかかわる2種類の本を読んだ。
<神町>を舞台とする小説は昨日読み終わったばかり。
それを読み終わったら、7つの短編によって構成される短編連作の最初の2篇しか読んでいない<雪沼>が思い出された(雪沼の短編のひとつからは、すでに引用したと思う)
この2種類の小説には、共通点と、まったく反対の要素がある。
共通点は、1964年生まれと、1968年生まれの比較的若い作家によって書かれたこと。
それぞれの単行本が出たのが、2003年という同じ年であること。
だが、このふたつの小説世界は、対極的である(笑)
おもわず笑ってしまうほどに。
片っ方は“短編連作”であって、その集積もとくに厚い本ではない(ぼくは文庫で読んでいる)、もう一方は、文庫本4冊である。
<雪沼>は架空の(実際にはない)地名らしいが、<神町>は山形県に実在し、しかもこの本の著者の生まれた場所である(だから著者はその神町の地図に《物語は完全なフィクションであり、実在する神町とはいっさい関係ありません》と記述した)
<雪沼>周辺にはスキー場もあり、寒い(感じだ)、火がなつかしい。
だが<神町>の物語は、特に暑い夏に展開され、その地方でもめずらしい強力な台風に見舞われる。
<雪沼>文庫本裏表紙には、《山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす傑作連作小説》とある。
<神町>文庫本裏表紙には、《神の町に<神>は存在しないのか。自殺、事故死、行方不明と事件が相次ぎ、放火や地震が住民たちに追い打ちをかける……そして訪れる審判の時とは?》とある。
さて、あなたは、“どっち”が読みたいですか?(笑)
ぼくは“中庸”を取るわけではないが、どっちもけっこう好きです。
しかしなによりも、この2種類のお話しを並べてみるのが、おもしろい。
どっちも“リアリズム”ではございません。
が、“ファンタジー”でもないね。
いま<神町>を怒涛のように読み終わったぼくには、<雪沼>がなつかしい。
しかし、<雪沼>も、なかなか危険な領域をくぐりぬけてきたのかもしれない。
危険な、デインジャラスな、地帯。
ある場所の。
それは、ぼくたちのこころの場所なのだろう(そして、これまでの時間の堆積に)
つまり、時間と空間は、よじれる。
ぼくの小さな町では
神を信じて育った
神はぼくたちをみつめていて
壁に向かって信仰を誓うとき
ぼくにいつものしかかってきた
主よぼくは思い出す
ぼくの小さな町を
学校がひけて家に帰るときは
工場の門の前を自転車で飛ぶよう走り抜けた
母さんは洗濯の最中で
ぼくたちのシャツを汚れた風に干していた
雨があがると
虹がでた
でもそれは真っ黒だった
その虹に色がなかったからじゃなく
その町のみんなにイマジネーションが欠けていたから
すべてが同じものだった
ぼくの小さな町では
ぼくの小さな町では
ぼくは何者でもなかった
父さんの子である以外は
カネをためて
栄光を夢見ていた
引き金にかけた指みたいにひきつって
死者と死んでいく人しかいない町を離れる
ぼくの生まれた小さな町を
死者と死んでいく人しかいない
ぼくの小さな町
死者と死んでいく人しかいない
ぼくの小さな町を
<Paul Simon:“My Little Town”>
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