Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

なんといったらいいか、わからない

2011-02-19 08:44:33 | 日記


恒例の“内田樹ブログ”を読みましょうね、という、ぼくのブログである。
後半ではちゃんと“天声人語”も読む予定である。

最新内田樹ブログから引用;

《ご案内のとおり、1991年の大学設置基準の大綱化によって、大学の教養教育は解体された。
それは「一般教養などというものは不要である。18歳から4年間びっちり専門教育した方が、使いでのある新入社員ができる」という産業界からの強い要請があったからである。
そうやって10年間専門に特化した大学教育をしたら、当然ながら、卒業生は「使えない新入社員」ばかりになってしまった。
自分の専門のことだけは詳しいが、それ以外のことには何の興味も示さない若者が量産されたからである。
彼らは同一の価値観を共有し、同一の語法で語る「内輪のサークル」でかたまることを好み、年齢や立場や職種の違う人々とのコミュニケーションにぜんぜん興味を示さなかった。
でも、「そういう学生が欲しい」と産業界の方が言ったのだから、いまさら「困る」と言っても私は聴く耳持たない。
18歳から専門特化しても、いいことなんかないぞ。それより文学とか哲学をやったほうがいいって、と私は声高に呼びかけていたのだが、だあれも聴いてくれなかったのである。
いまさら経団連や日経連が「やはり大学では文学や哲学を勉強して、幅広い視野をみにつけていただきたい」などと言い出しても、私は返す言葉を持たない。
それにここに透けて見えるのは、やはり「高いスペックの既製品が欲しい」という切実な欲求であり、未加工の素材を受け容れて、それを育て上げてゆくところで企業文化の底力の差が出る、という考え方は見られない。
現代の若者を取り巻く劣悪な雇用状況の原因はここにある。
非力で無能な若者たちを育てるのは社会全体の責任だという考え方がここにはない。
若者の社会的未成熟は自己責任であり、それゆえ就活でさんざん苦しまなければならないという一見合理的な発想の根本にあるのは、企業の社会的責任の放棄である。
企業の社会的責任の放棄は雇用者の側の「社会的未成熟」の結果である。》(引用)


要約しよう;

① 1991年の大学設置基準の大綱化によって、大学の教養教育は解体された
②「一般教養などというものは不要である。18歳から4年間びっちり専門教育した方が、使いでのある新入社員ができる」という産業界からの強い要請があった
③ 10年間専門に特化した大学教育をしたら、当然ながら、卒業生は「使えない新入社員」ばかりになってしまった
④ 自分の専門のことだけは詳しいが、それ以外のことには何の興味も示さない若者が量産された
⑤ 彼らは同一の価値観を共有し、同一の語法で語る「内輪のサークル」でかたまることを好み、年齢や立場や職種の違う人々とのコミュニケーションにぜんぜん興味を示さなかった
⑥ 18歳から専門特化しても、いいことなんかないぞ。それより文学とか哲学をやったほうがいいって、と私は声高に呼びかけていたのだが、だあれも聴いてくれなかったのである
⑦ ここに透けて見えるのは、やはり「高いスペックの既製品が欲しい」という切実な欲求であり、未加工の素材を受け容れて、それを育て上げてゆくところで企業文化の底力の差が出る、という考え方は見られない
⑧ 現代の若者を取り巻く劣悪な雇用状況の原因はここにある
非力で無能な若者たちを育てるのは社会全体の責任だという考え方がここにはない
⑨ 若者の社会的未成熟は自己責任であり、それゆえ就活でさんざん苦しまなければならないという一見合理的な発想の根本にあるのは、企業の社会的責任の放棄である
⑩ 企業の社会的責任の放棄は雇用者の側の「社会的未成熟」の結果である


以上①~⑩をさらに、圧縮する;

展開;
《大学の教養教育の解体》 → 《専門教育だけする》 → 《使いでのある新入社員ができる(はず)》 → 《専門のことだけは詳しいが、それ以外のことには何の興味も示さない若者が量産》 → 《同一の価値観を共有し、同一の語法で語る「内輪のサークル」でかたまることを好み、年齢や立場や職種の違う人々とのコミュニケーションにぜんぜん興味を示さない》(笑) → 《未加工の素材を受け容れて、それを育て上げてゆくところで企業文化の底力の差が出る、という考え方は見られない》 → 《非力で無能な若者たちを育てるのは社会全体の責任だという考え方がない》

結論;
A:若者の社会的未成熟は自己責任であり、それゆえ就活でさんざん苦しまなければならないという一見合理的な発想の根本にあるのは、企業の社会的責任の放棄である
B:企業の社会的責任の放棄は雇用者の側の「社会的未成熟」の結果である


さて、AとBは循環してますね(笑)

《企業の社会的責任の放棄》=《雇用者の側の「社会的未成熟」の結果》


こうなると、日本社会というのは、永遠に“循環している”だけです。



次ぎ、今日の天声人語;

《▼遠いのが政治の春である。小沢一郎氏は「菅おろし」で腹を括(くく)ったとみえ、氏を慕う議員が脱党へと動き始めた。政権交代の岸に並べた夢は片端から消え、民主党そのものが絶滅、いや自壊の途にあるかに見える▼いよいよ改革に踏み込むかという時に、またぞろ政局祭りだ。国の針路を争うならまだしも、私怨(しえん)のたぐいだから情けない。ひと雨ごとに春暖が近づけば、ひともめごとに希望が遠のく。予告編ばかりの政治を見せられているうちに、はて何度目の春本番だろう。》(引用)


つまり“季節はめぐる(循環する)”のです。

だから、また春が来ると言って、喜んだり、希望に胸を膨らませているわけにもいかないのかも。

必要なのは“切断”かも。

あなたが変わらなきゃ、なんも変わりません。






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