先日取り上げた、“アメリカのマルクス主義者”フレデリック・ジェイムソン『政治的無意識』の読書は、第1章を読みつつ、やはり、失速状態におちいった。
そもそも“マルクス主義”を標榜する人が、“生産様式”、“弁証法”、“階級闘争”、“歴史化”などの概念を<擁護する>のは当然であるけれど、それらの<用語>が出てくるたびに、ぼくはがっかりしてしまう自分をどうすることもできない。
さらに、より本質的には、マルクス主義であろうがなんだろうが、ある文学作品と、それら個別作品の集積(それを“文学史”と呼ぼうが呼ぶまいが)を、なんらかの形で、分析したり包括する<文学理論>というものの構築は(実践は)、可能であろうか?あるいは、必要であろうか?あるいは、意味があるのだろうか?という疑問が生じるのである。
ぼくはまったく無知だが、どうも現在アメリカのアカデミズムは(すなわち“大学村”の知識人は)、ある<文学作品>を書いたり、読んだりするより、<文学理論>“のみ”に関心があるのではないか?という疑いが生じた。<注>
しかしこの本の第1章は、“理論編”なのであった。
第2章“魔術的物語”に入って、おもしろくなってきた。
しかもまったくの偶然であるが、ここで取り上げられた文学理論家“ノースロップ・フライ”は、近日ぼくが読了した大江健三郎『憂い顔の童子』の重要登場人物“ローズさん”の<先生>であった。
おどろくべきことに(最近の大江についてよく知っているひとには“おどろくべきこと”ではないのだろうが)、少なくとも大江の『憂い顔の童子』は、このノースロップ・フライ理論に“依拠している”とまではいえなくても、“影響を受けている”ことがわかった。
その部分を引用する(かんたに言って“リアリズム”と“ロマンス”が問題になっている);
★ フライのロマンス理論は、ロマンスというジャンルをひとつの様式として、あますところなく説明したものである。フライにとって、ロマンスとは日常世界を変形することをめざす願望充足、またはユートピア的幻想であった。
★ したがって、ロマンスとは通常の現実を変形する過程なのであって、通常の現実の代用として空想的な世界を用いることをいうのではない。
★ つまり、「探究譚とは、リビドーつまり欲求する自我が、現実の不安から解放してもらえるような充足であるとともに、それでいて、その現実をなおも含むような充足をさがしもとめる行為である」(フライ『批評の解剖』)
★ フライが日常の現実の変形をまず最初に重視すること自体のなかに、すでに結論がほのめかされている。つまり、日常生活から地上の楽園の相貌が浮かびあがってくるというのなら、この日常生活は、そもそも世俗的な偶然性を有して「ふつうに」存在する、ありふれた場所としてではなく、むしろ、呪いや魔法、黒魔術、悪意ある呪文、破滅をもくろむ呪いの儀式などを被りつつ最終的にもたらされた結果として、はなから想定されているに相違ない。
★ ロマンスとは、世界の世界性がそこでみずから姿をあらわしみずからを宣言する形式にほかならぬといってよいであろう。いいかえれば、私たちの経験を超越する地平という専門的な意味での《世界》が、そこでは世界内的な意味でみえてくるのである。
(以上『政治的無意識』第2章から引用)
なんとなく“わかった”であろうか(笑)
もちろん、ジェイムソンはフライを“評価しつつ批判する”のである(笑)
すなわち(上記引用箇所のすぐあとで)、このフライの「自然」が、<固有の特殊化された社会的・歴史的な現象というよりも、“自然なるもの”として暗に定められている>と批判する。
この“批判”が、マルクス主義文学論なのである。
さらに引用;
★ ロマンスにおいて世界性が中心位置をしめているのであれば、フライがロマンスの登場人物の悲劇的カテゴリー――とくに、英雄と悪者の役割――にあたえている重要性に疑いをさしはさまざるをえなくなる。ここで私たちはフライと逆のことを示唆しておきたい。すなわちロマンスの「世界」のもつ妙に活動的で脈動する生命力が、『ソラリス』でスタニスワフ・レム描くところの知覚力のある海洋そっくりに、ふつうは物語の「登場人物」が保有しているはずの、行為と出来事をつくりだす機能の多くを吸いとってしまう傾向があるのである。
《スタニスワフ・レム描くところの知覚力のある海洋》!!
ぼくは<ソラリスの海>が出てきただけで満足である。
(ぼくにとっては、“スタニスワフ・レム描くところ”ではなくて、“タルコフスキーの”であるが)
上記理論を、『ハリー・ポッター』に適用することができよう。
『1Q84』に適用せよ!(笑)
もちろん、大江健三郎にも。
<注>
しかし、イギリス“ニュー・レフト”文学理論家テリー・イーグルトンは、こう言っている;
★ 経済学者J・Mケインズはかつてこう語ったことがある。理論を嫌う経済学者、もしくは理論などなくともうまくやっていけると豪語する経済学者は、結局、古い理論に縛られているにすぎないのだ、と。同じことは、文学研究や批評家にもあてはまる。
★理論に対する嫌悪というものは、ふつう、他人が抱く理論にむけられた反発を意味するとともに、自分自身が理論を持っていることをどうしても認めたくない気持ちをも指している。本書の狙いは、自分自身の中にあるそうした抑圧をとりのぞき、私たち自身をもう一度反省してみることにある。
<『新版 文学とは何か』(岩波書店1997)>
ぼくの言葉では、《自分自身が理論を持っていることをどうしても認めたくない気持》として現れる<理論>を、“思い込み”と呼ぶ。
それは、《自分自身の中にあるそうした抑圧》と同じもの(こと)である。
だから、文学“理論”について考えることは、たんに、“いわゆる文学”の問題ではなく、抑圧からの解放の問題である。
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