Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

朝日新聞の“常識”

2010-09-07 12:52:14 | 日記


今日の天声人語(引用);

▼ この「首相選び」は政治史に残るだろう。だが、祭りばやしが高鳴るほど隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いは募る。〈いつの日か直に決めたい国の顔〉と先の川柳欄にあった。「直に決めた」といえる去年の祭りを、むなしく遠く思い出す方もおられよう▼さて、どちらが首相にふさわしいか。小紙の世論調査では65%が菅首相をあげ、小沢前幹事長は17%だった。他紙も似た傾向のようだ。民意という川は、菅さんを浮かべ、小沢さんを沈めたがっていると見ていいだろう▼民主的なコントロールとは、素人である大衆の方が、結局は、しがらみに巻かれた玄人より賢い結論を出す、という考え方で成り立っている。バッジ組は、新人議員とて利害損得の渦中にあろう。民意が遠吠(とおぼ)えにすぎないとなれば、むなしさはいや増す▼もとより政治は対立を前提とする。そして政治家とは対立の中で勝者をめざす人たちだ。だが小沢さんの出馬には、どこか「私闘」の影がさしていないか。権力ゲームでジリ貧になる焦りから勝負に出たような――。このあたりの陰影に人は鈍くはない▼去年の祭りでの熱を帯びた参加は、たった1年で村祭りの傍観に変わってしまった。頼りなげな清廉にせよ不人気の剛腕にせよ、選ばれるのは村の顔役ではなく、国の顔である。(以上引用)



何度も言っているように、天声人語だけでなく“大メディア”の言説は、自分の“意見”を<常識=良識>であるかのように語る。

しかしその<常識=良識>こそが、まちがっており、でたらめであることを、ぼくは“しつこく”指摘してきた。

そしてこのメディアの常套手段は、“自分の意見(書いていること言っていること)”が、“大衆の意見を代弁している”という一貫した<ポーズ>によって成り立っている。

しかしもし、大メディアが<大衆>を支配したいと望むなら、“私は大衆の意見を代表して語る”という<ポーズ>を取ることが、いちばん“有効”である。

“大メディア”を経営する方々や論説を書く方々は、一般に、頭の良い人々で、優秀成績で<学校>を出て、難しい入社試験を突破し、海外駐在などを経て、“現在の地位”を獲得した方々であると想定できる。

よもや、コネ入社ではあるまいに(笑)

しかし上記の<優秀な方々>の経歴が、すでに画一的である。
あるタイプの人々でなければ、“大メディア”に就職していない。

なぜぼくはこのような、あたりまえで退屈なことを書いているのか?
まったく“字数”の無駄である。

しかし、忘れられていることがある。

すなわち、大メディアで何かを書く人々(言う人々)は、<大衆ではない>。

彼らはいつも<大衆>を“想定”し、大衆の化けの皮をかぶって、“大衆でない自分の意見”を書いているのだ。


以下最初に掲げた今日の天声人語で、“そのこと”を指摘する;

①《この「首相選び」は政治史に残るだろう》

政治史に残るかどうかなどわからない、第一、“政治史に残る”かどうかなどどうでもよい。


②《「直に決めた」といえる去年の祭りを、むなしく遠く思い出す方もおられよう》

これは、想像である。
《去年の祭りを、むなしく遠く思い出す方》は、いるかもしれないが、いないかもしれない(笑)、ぼくは思い出さない。


③《他紙も似た傾向のようだ。民意という川は、菅さんを浮かべ、小沢さんを沈めたがっていると見ていいだろう》

これも“推測”である。
すなわち<民意>というのは、大メディアの世論調査によって<形成される>。


④《民主的なコントロールとは、素人である大衆の方が、結局は、しがらみに巻かれた玄人より賢い結論を出す、という考え方で成り立っている》

これがこの文章の<キモ>である。
しかしこの文章の根拠となっている、“素人大衆”と“しがらみに巻かれた玄人”という分割は、成り立つだろうか?
たしかに、この“選挙”では、“選挙権を持つ人”と“そうでない人々”という図式は成り立つ。
しかし、たとえすべての成人が選挙権を持つ総選挙においても、<民意>が反映されていないという現状こそが問題である。
要するに誰も選びたいひとがいないのに、無理やり選ばざるをえない選挙という茶番劇が、どうして<民主主義>なのだろうか?

しかももっと決定的なことがある。
《しがらみに巻かれない素人》など、どこにもいない。
もちろんこの天声人語を書いているひとにも、<しがらみ>はある。


⑤《民意が遠吠(とおぼ)えにすぎないとなれば、むなしさはいや増す》

笑う。
笑うほかない。
《むなしさはいや増す》という文章の、<主語>は誰か?
この文章の書き手(朝日新聞社員)の《むなしさはいや増す》のだろうか?
この文章の“読者”(朝日新聞社員から見た、素人!)の《むなしさはいや増す》のだろうか?

いやいや、ぼくはとっくに、《むなしさはいや増す》です。
つまり朝日新聞の言説にさ。


⑥《▼もとより政治は対立を前提とする。そして政治家とは対立の中で勝者をめざす人たちだ。だが小沢さんの出馬には、どこか「私闘」の影がさしていないか。権力ゲームでジリ貧になる焦りから勝負に出たような――。このあたりの陰影に人は鈍くはない》

ああもういやになってきた(笑)
まさに、この文章に、《むなしさはいや増す》。

《このあたりの陰影に人は鈍くはない》
という文章の<人>とは誰か?
朝日新聞社員か?読者か?政治の素人か?大衆か?
????????????????????????????????
いったいどこに《権力ゲーム》からまぬがれている<人>がいるのか?
朝日新聞社員だって、《権力ゲーム》の渦中にある。


⑦《▼去年の祭りでの熱を帯びた参加は、たった1年で村祭りの傍観に変わってしまった。頼りなげな清廉にせよ不人気の剛腕にせよ、選ばれるのは村の顔役ではなく、国の顔である》

いや、この国の<民主主義>は、“ずっと”、《村祭りの傍観》である。

《頼りなげな清廉にせよ不人気の剛腕にせよ》とは、誰のことか?

もちろん“選ばれるのは”、いつも<村の顔役>である。

なぜなら、朝日新聞など大メディアも、<村の顔役>によって経営されているから。


ぼくは、菅も小沢も支持しません。
朝日新聞も読売新聞も日経新聞も支持しません。



自分の《権力ゲーム》でカネを稼ぎながら、《むなしさはいや増す》などと言っている人々が消滅しない限り、民主主義がないだけではなく、やはりすべての<終り>は近い。





最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (hiro.t)
2010-09-08 23:56:26
Dear Mr.Warmgun,


本文とは関係ありませんがふと読んでいて先日復帰し気迫のこもった演奏を指揮された小澤征爾さん
の姿を思い出しました。

私が思いますに死を乗り越えるほどの大病の経験
が彼に新たなる音楽への使命感に火を付けたのでは
。。。。


もしそうだとするならば命の働きって不思議なものですね

返信する
おはようございます (つちや)
2010-09-09 07:39:36
 ウチの新聞なんて、こども新聞が入っている時があるのですが、先日公開された死刑執行室の写真が掲載されており、絶句してしまいました。真実を伝えているとは思うけれど、私は何かショックを受けてしまいました。新聞の果たす役割ってなんなのかなぁ・・・
返信する
Unknown (warmgun)
2010-09-09 09:17:50
hiro.t 様

小澤征爾さんですか。
ぼくもこのニュースは知っていますが、とくに感想はありません。

小澤征爾というひとの名は、もちろんぼくの世代には馴染み深いものです。
でもぼくが小澤征爾を聴いたといえるのは、彼が指揮した武満徹の音楽だけです。

ぼくは“クラシック”に関心がなかったわけではありませんが、“指揮者”というのには、それほど惹かれたひとがいません。
現在のぼくにとっては、クラシックも“器楽曲”だけです、もっとはっきり言えば、バッハの“器楽曲”です。

しかしこれはぼくの“好み”であって、それをひとに押し付ける気はありません。
それから、大病の後で仕事をするということも、そういうパターンには特に関心がありません。
“その人”に関心があれば、その人が、大病のあとにも、仕事をすることに関心はあります。

だが、“一般に”、大病の後にも仕事をするひとに使命感を感ずることが、良くないと言っているのでもありません。
返信する
Unknown (warmgun)
2010-09-09 09:36:14
つちや 様

死刑執行室が公開されたというニュースは、“ネットで”見ています(ぼくは新聞を購読しておらず、テレビニュースもほとんど見ていません)
その死刑執行室の写真というのも見ていません。

それで、その写真を見たら自分がショックを受けるかどうかもわかりません。
つまり映画やドラマで、“死刑執行”については、かなり印象的なシーンを見ています。

しかしたしかに、“映画やドラマで”見るのと、“現物”を見るのとでは“ちがう”ということはあります。
この場合も、“写真”や“テレビ映像”を見るのと、その“現場”に立ち会うのとでは、ちがうでしょう?

つまり<真実を伝える>ということについて。

しかも自分が“現場に立ち会った”ところで、その<感じ>は、それぞれのひとでちがうわけです。

ぼくはここでなんら“結論”を述べれないです(笑)
ただ“ショックを受ける”ことは必要だと思います。

むしろ現在の“報道”は、ショックを緩和することに熱心だと思います。

だって、“平凡なひとりの人”が、<一生>を生きること自体が、ショックに満ちていると思いませんか?(笑)
返信する

コメントを投稿