★ ひとは常に、知識人とは単純・明澄な世界の内部で考え、行動しなければならないものであるかのように思う。
まるで世界とはミサ典書のようにそのまますらすらと読める明解なもので、その正確な意味を浮かび上がらせるためには、その気になって目を向け、ちょっと集中するだけで良いというかのように振舞っている。
★ 別の言い方をすると、知識人たちの方は合理的な行為者としては程度の差があるが、彼らが行動する世界の方は、完全に合理的であり、そこでは善と悪、真と虚が透明性と自明性のうちに見出されるという原則から出発しているのである。
★ ところがもちろんそんなことはない。知識人もすべての人と同じように不透明で、謎に満ち、闇に覆われた世界を相手にしている。歴史的行動――サルトルの言うプラクシス――の世界は灌木林ないし雑木林であり、濃淡の異なるいくつもの影が落ち、矛盾に満ちたサインとメッセージ、嘘と幻影と真実のかけら、ごちゃごちゃに交じったライン、いわば正確な思考の展開に対するありとあらゆる障害に満ちている。
★ で、最初に問うべき問題、一人の知識人を断罪する前に、そもそも裁く前に行うべき調査とは、彼が関わった灌木林ないし雑木林の具体的な特徴に向けられねばならないだろう。誰もが闇のうちにいる。そのとおり。だが、各人にそれぞれの闇がある。正確に言って、この人の闇とは、どんな闇だったのか。あの人の闇とは。本当のところ、彼が関わった特殊具体的な霧の厚みとはどのようなものであっただろうか。その霧の厚みこそが、彼にとって見えないものと見えるもの、聞こえないものと聞こえるもの、つまりは、ある種、語りうるものと語ることが不可能な、または困難なものを決定したのだ。
★ これこそがサルトル自身が「状況」という概念によって示唆したものである。それはサルトルが「自分の時代のために書く」のなかで言っていることだ。そこで彼は時代を「肉体的で生命をもつ濃密なもの」と定義し、主体はその時代を「盲目的に、激高と恐怖と熱狂のうちに」生きると説明している。
★ 『存在と無』の著者が、その時まで当人が述べてきたこと、考えてきたことすべてに対する生きながらの否定であるような政治に賛同したことには、強い憤りと不快を感じることはあるし、感じざるをえない。しかし彼を断罪すると同時に、理解しようと試みねばならないし、理解するためには、この闇、もしくはこの暗がりのうちにはいりこまなければならない。そここそ彼が歩み、そして迷った現実の場所なのだ。
<ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』(藤原書店2005)>
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