Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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孤族の国

2011-01-08 10:51:10 | 日記



朝日新聞が、<家族>に対して<弧族>という新語を提起して連載を行っている。

今日の社説のタイトルは、<孤族の国の福祉―個人支える制度と社会に>である。

ぼくは、<弧族>という言葉には、違和感を感じているが、そういう言葉の問題ではなく、この社説で述べられている今後日本社会の“基礎データ”には注目すべきだと考える。

すなわち、<弧族>という問題があるのなら(ある)、それは<新語>の提出ではなく、あくまで、“家族と個人”の問題である。

まさにこの朝日社説にあるように、

《日本の社会保障、税制や教育支援など公的制度は、「働く夫と専業主婦と子ども」からなる「標準世帯」をモデルに設計されてきた。だが、2030年には、単身世帯が全世帯の4割を占め、こちらが標準になる。 》

という<事実>がある。


ぼくはかねてから、この<標準世帯>に疑問をもってきた、ぼく自身、生まれてから一度も<標準世帯>であったことがないから(笑)

もちろんこのように<標準世帯>を定めることは、社会保障の問題であるだけでなく、<日本社会>を考えるときの、あらゆる<偏見>の根源でもあった。

まさにこの問題は、現在大部分の日本社会について語る者の、“暗黙の前提”として、あまりにも“当たり前のこと=良いこと”として、無意識の(暗黙の)前提として、この社会の閉塞の原因になっていると考える。

たとえば、このような社説を掲げる朝日新聞は、<天声人語>などにおいては、あらゆる“文脈”で、<標準世帯家族イデオロギー>にしがみついているではないか。
いつもいつも“標準世帯家族イデオロギーは人類の普遍の価値ですねー”と自己満足のぬくぬくとした<常識>を撒き散らしているのだ。
誰もが、朝日新聞論説委員のように<標準世帯>で“標準的に”生きているのではない。
それは、いわゆる<社会保障>の問題であるだけでなく、<文化=人間が生きることの真実>にかかわる問題である。


もはやこれまで“当たり前のこと”が、当たり前でなくなる<社会>にぼくらは生き続けなければならない。

そのとき、これまでの<常識=前提>は、あらゆる領域・レベルで、新しく組みなおされなくてはならない。

そのためには、あらゆる“善きこと”さえも、再検討する、基礎からの、粘り強い<思考>が求められる。

そのひとつのモデルを、ぼくは立岩真也の仕事に感知した。





<今日の朝日新聞社説から引用>

単身世帯の数が、夫婦と子どもがいる世帯の数を上回って最も多い世帯類型になる――そんな見通しが専門家の間で有力になった。
 配偶者と死別した高齢者の一人暮らしが増えていることは、これまでも指摘されてきた。新たな変化は、50~60代の男性単身世帯の増加である。
 原因の一つは、未婚者の増加だ。すでに、50歳男性の6人に1人は一度も結婚をしたことがない。20年後には3人に1人が未婚者になる見通しだ。
 社会全体をみれば昔よりずっと豊かになり、ライフスタイルの自由度が増した。一人で生きることも、個人の価値観に基づいた選択肢としては尊重されなければならない。
 だが、正社員になかなかなれないため安定した収入が見込めず、結婚へと踏み切れないまま独り身を余儀なくされている若者が増えているのも現実だ。単身世帯はますます増え続けると予想される。
 単身世帯は、失業や事故、病気などで生活の糧を失えばたちまち貧困に陥り、社会から孤立しがちだ。
 日本の社会保障、税制や教育支援など公的制度は、「働く夫と専業主婦と子ども」からなる「標準世帯」をモデルに設計されてきた。だが、2030年には、単身世帯が全世帯の4割を占め、こちらが標準になる。
 単身世帯ならずとも、家族に看病や介護を委ねることはそろそろ限界だ。女性が外で働く必要性は、今後ますます強まるだろう。同居する家族がいたとしても、「日中は担い手不在」になる確率は高まる。
 社会保障は、もっと個人に焦点を当てた制度へかじを切らざるをえない。
 専業主婦優遇となっている現行の年金保険料の制度や、一人暮らしに対応しきれていない介護保険サービスなどが見直しの対象となる。
 高齢者医療制度も、個人化の視点から再考すべき点は多い。所得税の配偶者控除の是非についても、財源確保にとどまらない議論を期待したい。
 個人をしっかり支えるための制度作りは、同時に地域社会の再建に向けた取り組みの強化も必要とする。






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