Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ポチョムキン

2012-02-29 23:24:30 | 日記


★ 次のような話がある。ポチョムキン(1736-91、ロシアの将軍、政治家)は多少の差はあれ定期的に繰り返される鬱病を病んでいて、この期間は誰も彼に近づくことを許されず、その居室への出入りはこのうえなく厳重に禁じられていた。宮廷ではこの病気のことを話題にするのは避けられていた。とりわけそれをほのめかすだけでもエカチュリーナ女帝の不興を買ってしまうことを、誰もが知っていたからである。宰相のこうした欝の期間のひとつは、あるときことのほか長く続いた。深刻な混乱がその結果だった。公文書保管室には書類が山と積まれ、女帝は早く処理するように催促していたが、それはポチョムキンの署名なしには不可能だった。高官たちは途方にくれていた。

★ このときまったくの偶然から、しがない下っ端の官房書記シュヴァルキンが宰相官邸の控えの間に紛れこんでしまったが、そこには枢密顧問官たちが例によって嘆きにくれながら額を寄せあっていた。「閣下方、いったい何事ですか。わたくしめで何か閣下方のお役に立つことがありますれば」、そう性急なシュヴァルキンは述べた。高官たちは彼に事情を説明し、せっかくの申し出を役立てられなくて残念だ、と言った。「それだけのことでしたら、みなさん」、とシュヴァルキンは答えた、「わたくしめに書類をお任せください、お願いですから」。もはや失うものとて何もない枢密顧問官たちは、言うようにやらせてみようという気になった。

★ そこで書類の束を脇に抱えたシュヴァルキンは、無数の回廊や廊下を抜け、ポチョムキンの寝室に向かった。ノックもせずに、いや立ち止まりもせずに彼はドアの取っ手を回した。ドアに錠はかかっていなかった。薄暗がりの中でポチョムキンは、すりきれたガウンを身にまとい、爪を噛みながらベッドの上に座っていた。シュヴァルキンは書き物机に歩み寄り、ひと言もむだにすることなくペンをポチョムキンの手のなかに押しつけ、手あたり次第に書類の一枚をその膝の上に置いた。放心したようなまなざしをこの闖入者に向けた後、眠ったままそうしているかのように彼は最初の署名を終え、二枚目の署名を終えた。そのまま続けてすべて署名し終えたのである。最後の一枚を回収すると、書類の束を小脇に抱え、シュヴァルキンは来たときと同じようにさっさとこの居室を後にした。

★ 誇らかに書類を打ちふりながら、彼は控えの間に入ってきた。枢密顧問官たちは彼に殺到し、手から書類をひったくった。息を呑んで彼らは書類の上にかがみこんだ。誰も一言も発しなかった。一同は凍りついたように動かなかった。またもやシュヴァルキンは近づいてゆき、またもや彼は性急に高官たちの狼狽の理由をたずねた。そのとき彼のまなざしもまた署名の上に落ちた。書類はどれもこれも署名してあった、シュヴァルキン、シュヴァルキン、シュヴァルキン・・・・・・と。

<ヴァルター・ベンヤミン“フランツ・カフカ”―『ベンヤミン・コレクション2』(ちくま学芸文庫1996)>





最新の画像もっと見る

コメントを投稿