Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

レヴィ=ストロース死す

2009-11-05 10:38:54 | 日記
【パリ=国末憲人】20世紀を代表する思想家で文化人類学者のクロード・レビストロース氏が死去したと、AFP通信が3日、出版社の情報として伝えた。100歳。今月28日には101歳の誕生日を迎えるはずだった。(アサヒコム)


バタイユ、ラカン、メルロー=ポンティ、サルトル、ジュネ、デュラス、フーコー、ドゥルーズ、デリダ・・・・・・

みんな死んだ。


『悲しき熱帯』、『野生の思考』、『神話論理』などのレヴィ=ストロースの本がぼくたちに遺された。

あるいは上記の人々(と他の人々)による、戦後フランス思想の<本>が、ぼくらに遺された。

それを読むか否かは、“ぼくたちの”決断である。

サルゴジがレヴィ=ストロースについてなにを言ったかなぞ、まったく問題ではない。
サルコジがレヴィ=ストロースを“読んだか否か”が疑わしい。

この100歳の巨匠を、あがめたてまつるのは、よそう。
そうではなく、彼の(彼等の)言葉を聞け。

この極東の、世界の中心からはずれた場所で、“翻訳語”で世界思想を読むものとして、ぼくもささやかな読解に取り組もう。

<野生の思考>
<遠近の回想>

あらゆる国境と、あらゆる境界を越えるため、<野生の思考>は、現在において再提起され、継続されるだろう。




もちろん参照=引用すべきなのは、“フランス思想”のみではない。
現在ぼくが“ドイツ思想”に目覚めつつある(笑)ことは、最近のブログにでているだろう。

そもそも“フランス思想”とか“ドイツ思想”が、国境を越えたのが、20世紀の体験だったのである。
それは皮肉なことに、世界戦争の体験であった、あるいは不発の“世界革命”の。

だからこの21世紀に突入した、われわれの<思考>とは、その体験をベースとして展開される。
そういう意味で、われわれが、参照すべき<古典>は、これらの“モダン・クラシックス”である。
すなわち源氏物語でも蕪村でもないのである(昨日読売編集手帳参照)
余力があるひとが、源氏や蕪村を読むのはかまわないが(笑)

とくに<日本人>であるわれわれが警戒すべきは、“情緒的諦観の普遍性”に感情移入してそこに居座ことである(“現在”日本のほとんどの言説がこれのヴァリエーションにすぎない)

ああ“無常”、なのである。

つまり“実利的な無常”とでもいうべきだ(すべては“カネ=消費”である)

まさに毎日、自分が食べたもの、自分が買ったものを書いているブログは、この<無常観>のみを表出している。
つまり“地に足のついた生活者の無常観”をである。

こういう“若年寄り”しかいなくなった<世界>(たぶん日本だけじゃない)が、“人間の退化”であるかいなかを詮索しているひまはない。

だいいち楽しくない。

だからぼくの残りの人生においては、ぼくにとっては人間の思考のピークであると考えられる“ふたつの世界大戦を体験した戦後思想”を中心的に読む。




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