Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

内田樹の“追悼レヴィ=ストロース”ブログ

2009-11-05 13:43:15 | 日記
内田樹ブログは、“追悼レヴィ=ストロース”というブログを出している。

この内田の文章こそ、先日ぼくが“自分の身の丈に合わせてしか思想家(思想)を理解し得ない”ものの典型である。

引用する;
「アグレガシオンの同期」というのがどういう感じなのか私には想像もつかないけれど、お互いにどの程度の知的ポテンシャルをもった人間であるかについては、おそらくきわめて正確な相互評価をしていたはずである。
その試験のとき、私の想像では、ボーヴォワールとメルロー=ポンティとサルトルは「つるんで」いた。
試験のあいまに近くのカフェでちょっと休憩とかしているときに、「はは、楽勝だったねえ、さっきの試験」「オレ、時間あまっちゃったから、裏まで書いちゃったよ」などと声高に語って、まわりの受験生たちを怯えさせていた(そんなにせこくないか)。
でも、パリ大学出(ということは二流大学出ということである)レヴィ=ストロースはこのエコール・ノルマル組からある種の「排他性」と「威圧感」を感じたはずである。
たぶん「世界でいちばん頭がいいのって、やっぱオレだろう」という自負をもっていたレヴィ=ストロース青年にとって、パリのブルジョワ的な鷹揚さは許しがたいものに映ったのである。
片隅でまずいコーヒーを啜りながら、レヴィ=ストロース青年は「お前ら、いまのうちにたっぷり笑っとけや。いつかその坊っちゃん嬢ちゃん面に泣きみせたるわ」と思ったのである(全部、私の想像ですけど)。
(以上バカブログ引用)


まさに、
《(そんなにせこくないか)》
《(全部、私の想像ですけど)》

自分で言うなよ(爆)
ここで名のあげられたような人々は、内田樹のように“せこくない”のである。

それは“彼ら”が偉大だったとういうこと、ではない。

しかし、この戦中-戦後期の思想家の交流と、“相互影響”が、内田が語るようなレベルにないことは、たいして情報を得ているわけではない“ぼく”にも“想像できる”のである。

もっと事態は単純である、内田樹のような男には、サルトルも、メルロ=ポンティも、ラカンも、レヴィ=ストロースも決して“わからない”ことが、かれの文章を読むぼくには“わかる”。

だから内田の『寝ながら学べる構造主義』なぞを読んでも、何も学べない。
それどころか、“誤解”するだけだ。

“構造主義”だろうがなんだろうが、寝ながらは、学べない。

“商売人”だって、寝ないで走り回っているではないか。
寝ていられるのは、内田樹のような、海外思想を“くすねる”売文家だけである。
だいいち内田樹は、“高校依頼”の講演旅行に走り回っていると自分のブログに嬉しそうに書いているではないか。

内田樹(のようなひと)が認識できないこと。

それは、なぜ人間が直立歩行したかということである。






<検証>

レヴィ=ストロースの主著のひとつ『野生の思考』1962の扉にはこうある;

《メルロ=ポンティの思い出に》

これだけで充分である。

それとも『野生の思考』の“序”を引用すべきか;

★ 第1頁にモーリス・メルロ=ポンティの名がかかげられ、最後の章がサルトルのある著作の批判にあてられているからといって、私がこの両者を対立させようとしたとは考えないでいただきたい。コレージュ・ドフランスで私が行った講義のテーマのいくつかを自由に展開させたこの書物は、当然メルロ=ポンティに献げられるべきものであった。近年のメルロ=ポンティと私を知っている人なら、その理由のうちのいくらかをご存知のはずである。彼が健在であったならば、本書は、1930年、教授資格試験の少し前、教育実習でシモーヌ・ド・ボーヴォワールとともに私たちが出会ったとき以来の二人の対話のつづきとして彼に献げられたであろう。それゆえ、突然の死によって彼を失ったいま、せめてものなぐさめに、やはりこの書物は彼の思い出に献げることにしたい。

★ 私は、人間学(人類学)の哲学的基礎に関する若干の点について、自分がサルトルとは見解を異にすることを表明せざるをえないと考えるに至った。しかしそれは、サルトルのある著作を何度も読みかえし、1960-61学年度に高等研究院で聴講者とともに多くの回数をかけてその検討を行った末の決意である。これだけの手数をかけてでき上がったこの批判は、避け難い見解の相違を超えて、われわれ全員の讃美と尊敬の間接的表現であるとサルトルが理解してくれることを期待する。
<レヴィ=ストロース『野生の思考』序>


ここには、“フランス的社交辞令”しかないだろうか。
少なくとも、レヴィ=ストロースのメルロ=ポンティへの友情は明らかである。
さらにサルトルやボーヴォワールなど青春を共にした者への複雑な“おもい”も。

なにより重要なのは、<批判>の意味である。
批判する<対象>がなければ、批判もまた成り立たない。

決してサルトル支持者とはおもわれないデリダも晩年にサルトルへの感謝を書いた。<注>
ぼくはサルトルを“擁護”したいのではない。
批判を通しての“思考の継続”ということに注目している。

こういうのが“歴史”ではないだろうか。
ぼくらの住む場所(国)には、このような歴史が、あまりにも欠けている。

もちろんこのような歴史の継続の危機は、現在、世界的である。



<注>

ジャック・デリダ ”「彼は走っていた、死んでもなお」やあ、やあ”-『パピエ・マシン』(ちくま学芸文庫2005)




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