Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

中上健次を読む

2009-03-19 22:36:13 | 日記
この1ヶ月間、自分の書いたブログのどれを出そうかと選んでいて、アホらしくなった<注記>

中上健次を読む。


★ その被慈利(ひじり)にしてみれば熊野の山の中を茂みをかきわけ、日に当たって透き通り燃え上がる炎のように輝く葉を持った潅木の梢を払いながら先へ行くのはことさら大仰な事ではなかった。そうやってこれまでも先へ先へと歩いて来たのだった。山の上から弥陀(みだ)がのぞいていれば結局はむしった草の下の土の中の虫がうごめいているように同じところをぐるぐると八の字になったり六の字になったり廻っているだけの事かも知れぬが、それでもいっこうに構わない。歩く事が俺に似合っている。被慈利はそううそぶきながら、先へ先へ歩いてきたのだった。先へ先へと歩いていて峠を越えるとそこが思いがけず人里だった事もあったし、長く山中にいたから火の通ったものを食いたい、温もりのある女を抱きたいといつのまにか竹林をさがしている事もあった。竹林のあるところ、必ず人が住んでいる。いつごろからか、それが骨身に沁みて分かった。竹の葉を風が渡り鳴らす音は被慈利には自分の喉の音、毛穴という毛穴から立ち上がる命の音に聴こえた。

<中上健次“不死”-『熊野集』より>



★ちょうどたまたま新しく居を定めたところが、男が猟銃で一家七人殺傷し自殺した事件のあった熊野市二木島から二つ手前の村新鹿(あたしか)だった事もあり、今年はひととおりでなく桜が眼についた。
★路地では父親、母親の事を、男の親、女の親と呼ぶならわしがあるのだった。もちろん、あの子の男の親は、とは、決して市民社会で呼ぶようなあの子の父親というものと同じものではない(略)市民社会で呼ばれるような父親は路地にはないと言ってよく、男の親女の親とは、むしろ生物としての親という言い方に近い。
★・・・・・・いつふり出したのか雨の音で眼ざめる。ななめ向かいの姉の家に宿酔を晴らすために熱い茶粥でも食べさせろと行こうかと思案していて、ふと雨の音が苦しくなる。死ぬしか決着つかないと思う。いや、死のうか、と考える。
何度も何度も路地の雨は小説に書いてきた。玄関の戸を開けると、小説の世界がひらける。私がそこで一人、自分で手首を斬り喉首を斬り血まみれになって死んでいても誰も疑わない。小説の中の登場人物がそうなるように路地という幻の中で人は納得する。だが子供を道づれにする夢のような考えを持った事など一度もなかった。
★すっかり日が落ちたが空のかすかな白みで見える山がざわめき轟音を立てるのは、その男が、山々を枯らす勢いで泣いているからだった。

<中上健次“桜川”-『熊野集』より>



★ <吉野>に入ったのは夜だった。吉野の山は、闇の中に浮いてあった。吉野の宿をさがして、車を走らせる。道路わきの闇に、丈高い草が密生している。その丈高い草がセイタカアワダチソウなる、根に他の植物を枯らす毒を持つ草だと気づいたのは、吉野の町中をウロウロと車を走らせてしばらく過ってからだった。車のライトを向けると、黄色の、今を盛りとつけた花は、あわあわと影を作ってゆれる。私は車から降りる。その花粉アレルギーをひき起こすという花に鼻をつけ、においをかぎ、花を手でもみしだく。物語の土地<吉野>でその草の花を手にしている。
★田辺から枯木灘まで来たのに、レストランはあいていず、仕方なしに国道をさらに走る。その江住で絶壁が海にせり出し海が光でふくれあがっている光景の道端にその草を見つけたのは衝撃だった。セイタカアワダチソウの一群が枯木灘のそこに黄色い花を日に照らして咲いていた。
枯木灘。
ボッと体に火がつく気がした。いや、私の体のどこかにもある母恋が、夜、妙に寒いと思っていた背中のあたりを熱くさせている。高血圧と心臓病で寝たり起きたりしている母でなく、小児ゼンソク気味の幼い私が、夜中、寒い蒲団のなかで眼をさますと、今外から帰ってきたばかりだという冷たい体の母がいる。さらにすりよると、母は化粧のにおいがした。母に体をすりよせて暖まってくると、私は息が出来なくなるほど、喉が苦しくなる。
枯木灘のセイタカアワダチソウは、その息苦しさを想い起こさせる。私は、この旅の出発点でもある新宮へ向かった。とりつくろうものが何もないゴロゴロ石の海を見ておこう。
セイタカアワダチソウの根が持つという毒に私がやられてしまった、と思った。

<中上健次“吉野”―『紀州』より>



★ 朝の光が濃い影をつくっていた。影の先がいましがた降り立ったばかりの駅を囲う鉄柵にかかっていた。体と共に影が微かに動くのを見て、胸をつかれたように顔を上げた。鉄柵の脇に緑の葉を繁らせ白いつぼみをつけた木があった。

<中上健次『地の果て 至上の時』>




<注;09/03/20朝追記>

たとえば、ぼくは、竹田青嗣氏の新刊『人間の未来-ヘーゲル哲学と現代資本主義』(ちくま新書2009)を批判するブログを3回にわたって書いたが、これをボツにする。

その文章が不充分であると感じられたからだが、ぼくが“資本主義を擁護するリベラリズムによる未来構想”に決定的違和を感じることには、“確信”がある。

もちろんそれは、マルクス主義を資本主義に代替するということではない。
ぼくはむしろ、ヘーゲルを読まなければと思った。

ぼくが現在感じている違和感は、単に竹田青嗣氏や内田樹氏のような言説にあるばかりではないし、“天声人語”にあるわけでもない。

もうそんなことじゃない、のである。

それはもう、この“現在”にたいするまるごとの違和である。

竹田青嗣氏のような言葉に対して、中上健次の言葉を対比させれば、現状況に対する“批判”は充分であると思える。


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