Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

批判-批評

2009-03-19 01:24:42 | 日記

このブログを読むひとで、“あなたはひとの悪口ばかり言っている”と思う方がおられるなら、反論したい。

もしぼくの“批判”が“悪口”でしかなかったら、それはぼくが悪いのである。
“It’s my fault !”

ただ、ぼくは“批評”を目指している。
現在のぼくの批評が未熟であり、よれよれであっても、この“目指している=旅の途中”を見守ってほしいものである。

遠大なことをいえば、『トランスクリティーク』で柄谷行人が、カントの“批判”(『純粋理性批判』など)を、“批評の問題からはじめた”と書いているような意味である。

<クリティーク>である。

もちろん、ぼくの“批評”が、残され時間で、到底そういう水準に達し得ないことは(ぼく自身には)わかっている。

だが、生きている以上、生きているのだから、行けるところまで行くだけである。


このブログに移行して最初に引用したベンヤミンの言葉;

《希望なき人々のためにのみ、希望はぼくらに与えられている》

が、“ゲーテの『親和力』”という文章にあるというので、その文章を含む『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま学芸文庫1995)を買った。

その言葉は、その文章の最後にあった。


この“ゲーテの『親和力』”(1921-22成立)の書き出しを引用しよう。
けっして読みやすくはない、しかし、ここには“批評”ということについての“ラジカルな”考察がある;

★ 文学作品について書かれている昨今の著作物を見ると、研究の力点を批評的な関心よりも文献的な関心に置いて論じている、ということがすぐにわかる。そのため、作品の細部にも立ち入ろうとする以下の『親和力』論は、論述の意図についてともすれば誤解を招きかねない。本論は注釈と映るかもしれないが、しかし批評を意図しているのである。

★ 批評は芸術作品の真理内実を、注釈はその事象内実を求める。この両者の関係は書かれてあるもの一般がもつ根本法則に規定されていて、それによれば、ある作品の真理内実は、その作品が重要なものであればあるほどそれだけ目立たず緊密に、その事象内実に結びついている。したがって、自身に宿る真理を最も深く事象内実に沈潜させている作品こそ、持続するものであることが明らかになる。そのとき、この持続する時間の経過のなかで、具象事象は、それが現実世界で死にたえてゆくほどに、作品のなかでは観察者の目にいっそう明瞭になってくる。

★ しかしこれによって、現れ方からすれば、事象内実と真理内実は、作品が成立していた頃には一体化していたのが、作品の持続とともに分離してゆくのだ。それは、事象内実がはっきりとその姿を押し出してくるのに対して、真理内実の方はいつまでも同じように隠れたままでいるからである。

★ したがって、後世のすべての批評家にとっては、目につき奇異の感じを与えるものの解釈、つまり事象内実の解釈が、ますます批評の前提条件となる。批評家は、羊皮紙の文書を前にした古文書学者になぞらえることができる。文書の色褪せたテクストは、これに関係した、より強い筆跡になる書きこみにおおわれている。古文書学者がまずこの書きこみ文字の解読から始めねばならないだろうように、批評家は注釈から始めねばならない。

★ そしてそこから突然に、批評家にとってあるひとつのきわめて貴重な判断基準となるものが生じてくる。すなわち、いまはじめてかれは批評の根本問題を提起できるのだ―真理内実がその輝き[仮像](シャイン)を事象内実に負うているのか、それとも事象内実がその生を真理内実に負うているのか。というのは、事象内実と真理内実が作品のなかで分離してゆくことによって、この両者が作品の不滅性についての決定を下すからである。この意味において作品の歴史は作品の批評を準備し、それゆえ歴史的な距離が批評の力を増すことになる。

★ ひとつの比喩として、成長してゆく作品を炎をあげて燃える薪の山と見なすならば、その前に立つ注釈者は化学者のようであり、批評家は錬金術師に似ている。化学者にとっては木と灰だけがその分析の対象であり続けるのに対し、錬金術師にとっては炎そのものこそが謎を、生き生きとしてあるものがもつ謎を秘めている。そのように批評家は真理を尋ねるのだ。かつて在ったものという重い薪と、体験されたものという軽い灰の上で、真理の生き生きとした炎が燃え続けている。



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