Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

マネーの夢

2013-06-16 21:01:43 | 日記

★ 1980年代の東京市場では株価が大幅な上昇トレンドを描いていった。そしてその上昇線のまわりにはいくつもの波瀾が渦巻いていた。渦巻きの周辺では価値の磁場に狂いが生じ、相対的に変化の少ない実体経済から遊離して、株価が異常な速さで高騰や暴落を演じて見せた。そこでは人びとの期待が異常に膨らみ、さまざまなシナリオ=モードに乗ってマネーが激しく動いていく。しかもその部分的な変動を「槓(てこ)」にして、巨大な市場が貪欲な怪物のように膨張し、また血の気が退くように収縮する。もちろん、それは「拡大鏡」で見たような抽象的な幻像であり、実際に存在するのは部分的な取引に過ぎない。だが、相場とはもともと擬制であり、部分的な変動が実質的な効力をもつ世界である。拡大鏡に映るマネーの容量(時価総額)はその年度の生産・雇用などの実体経済よりもはるかに大規模なものとなる。この幻像の世界は実体経済と呼ばれるもの以上に人間の営みにたいして影響力をもってくる。

★ この奇妙な価値の空間は、マネーを求めて殺到する欲望によって張り出され、無数のそして際限のない「マネーの夢」に覆われている。マネーとは何でもありうる抽象的で一般的な欲望の対象である。マネーの夢は欲望の具体的な対象を括弧に入れているという意味では内容の希薄な夢である。だが、そこには欲望そのものが夢見られているという意味で何よりも深い執着がこもっている。そこでは語られるべき意味や記号は希薄だが、欲望そのものを味わうような過剰な執着が込められている。1980年代末のマネーの夢を彩るのはこの希薄なものの、癒しがたい過剰である。

★ たとえばこの時代に所得税の番付を埋めているのは土地、株式などのマネー・ゲームに由来する無表情で、偶然のようにみえる富である。これらの富はほとんど個人の勤勉、創意工夫、思想に裏打ちされていないし、また道徳とも関係がない。富はまさに富以外の何者も意味しないのである。それは人間的な意味のある記号からできていない。世界の金融センターといわれた都市において夢を見るのは人間ではなく、マネー自身なのである。そこでマネーを生みだしているのはマネーそのものだからである。それは不可解な錬金術である。人間たちはなぜ自分がその営み――意味の希薄な、むしろ営みの不在に見えるもの――にかかわっているのか、誰も知ろうとしない。そこには正義も、夢も、栄光もない、だが分厚い実定性を帯びた力が支配している。

<内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)>








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