Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

距離のエロス

2013-06-17 10:49:18 | 日記

★ 私たちの経験ではやさしさの評価はこれまで、「あの人はやさしい。」というように他者が下すものであった。だが若い人たちは、自分で自分をやさしいと評する。やさしさは何よりもまず自己評価として必要なのだ。ここでも旧来のあり方が180度転倒していることに気づかされる。この他者性の欠如が、彼らにとってやさしさが彼らのイノセンスの現われであるというようにみえる最大の理由なのだ。だがこうした批判的な見方はことによったら、真実の半分を言い当てているだけなのかも知れない。

★ 他者を巻き込むことを回避することこそが若い人の生み出しつつある新しいモラルつまりやさしさだとすれば、私たちに他者性の欠如として否定的に分析されたものこそが、彼らにとってモラルであり、したがって価値であるかも知れないのだ。だから若い人たちはそうした態度を自信をもって価値として打ち出しているのではなかろうか。これを価値とみなしていいのなら、人類はいままでにまったく知らなかった価値についての感性に出会っていると考えるべきだろう。

★ このような新しい価値においては、やさしさは残酷という形態をとることが起こりうる。それは他者にはたらきかけて生みだした残酷さではなく、逆のはたらきかけないことによる結果としての残酷さである。この新しいやさしさにおいて、他者は内部でくっきりと像を結んでいながら、これまで私たちが馴染んできた他者へと伸びて行き繋がろうとするやさしさとは異なる、あるいは正反対の外においては自他の境界が切断された世界が出現してくる。このやさしさと残酷さの一致は、やがて若い人たちにとっても自身で引き受けざるをえない苛酷な価値になっていくにちがいない。

★ ここに現われてきているのは、エロスすなわち親密さが、他者との距離を詰めるところに現われる濃厚さではなく、距離を保つことで成立する希薄さによって保障されているといった事態である。この距離のエロスの崩壊は逆転と言ってもいい。こうした状況は時代的なものとみなすことができる。若い人たちの「やさしさ」という価値は、旧来の価値意識と鋭く対立するゆえに病理に見える。だがそのように言うとき、同時にそれは時代があるいは時代精神が新しい価値の場所に入ろうとする境界のありようを示しているのではないだろうか。

<芹沢俊介“イノセンス”―『高校生のための現代思想ベーシック』より引用>







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