Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

追悼レヴィ=ストロース;『悲しき熱帯』引用

2009-11-05 14:28:22 | 日記
★ 私は今でも、私にとって最も懐かしい思い出のうち、ブラジル中部の前人未到の地帯での、あの無謀な行動の思い出よりも、ラングドック(フランス南部の一地方)の石灰質高原の断面で、二つの地層が接している線を追いかけた思い出の方を大切にしている。

★ それは、散策とか、単純な空間の探検とは全く違ったことであった。準備された目をもたない観察者にとっては、何の一貫した意味ももたないであろうこうした探索行も、私の目には認識というものの視覚化された姿や、認識の差し向ける困難や、それから期待できる歓びなどを示してくれるのである。

★ 景観の全体は、最初見た目には、人がそこにどのような意味を与えることも自由な、一つの広大な無秩序として現れる。しかし、農業にとっての損得の配慮、地理上の出来事、歴史時代、先史時代を通じてのもろもろの変転などの彼方に、すべてを繋ぐものとしての峻厳な「意味」があり、それが、他のものに先行し、命令し、そして、かなりの程度まで、他のものについての説明を与えるのではないだろうか。

★ この蒼ざめ、混沌とした線、岩の残片の形や密度の中にある、しばしば知覚しがたいような差異が、現在私が見ているこの不毛な土地に、かつては二つの大洋が相次いで存在したことを証明しているのである。過去の痕跡を手掛かりとして、数千年の停滞の跡を辿り、急斜面や地滑りの跡や、藪や耕地などのあらゆる障害を越えて、小径(こみち)にも柵にもお構いなしに進んで行く時、私は、意味を取り違えて働きかけているように見える。ところで、この反抗は、支配的な一つの意味――恐らく見極めにくいであろうが、しかし、他のそれぞれの意味は、その部分的なあるいは変形された置き換えであるような、支配的な一つの意味――を取り戻すことを、唯一の目的としているのである。

★ 時として、奇蹟が生ずることがある。隠れた亀裂の両側に、異なる種の植物が、それぞれに適した土壌を選んで、隣り合って緑も鮮やかに生えていることがある。渦巻きの複雑さを共にした二つのアンモン貝が、数万年の隔たりを、こうした彼ら独自の遣り方で証拠立てながら、二つ同時に岩の中に見分けられることがある。

★ その時、空間と時間は境を失って、俄に融合してしまう。現在の瞬間に生きている多様さが、歳月を並置し、それを朽ち果てないものとして定着させるのだ。思考と感受性は新しい次元に到達する。そこでは、汗の一滴一滴、筋肉の屈伸の一つ一つ、喘ぐ息の一息一息が、或る歴史の象徴となる。私の肉体が、その歴史に固有の運動を再生すれば、私の思考はその歴史の意味を捉えるのである。私は、より密度の高い理解に浸されているのを感じる。その理解の内奥で、歴史の様々な時代と、世界の様々な場所が互いに呼び交わし、ようやく解かり合えるようになった言葉を語るのである。

★ 私がフロイトの一連の理論に接した時、それらの理論が、地質学が規範を示している方法の、個々の人間への適用であるように思われたのは、まったく自然なことであった。

★ どちらの場合も、研究者は、見たところ到底人の理解を許しそうもない現象の前にいきなり立たされるのである。どちらの場合にも、彼は込み入った状況の含む諸要素の一覧表を作り、それを評価するために、感受性、勘、鑑識力といった彼の資質の繊細な部分を精一杯働かせることを求められる。それでいて、ある現象の総体に導き入れられる、一見不適当とも見える秩序は、偶然のものでも恣意の産物でもないのである。歴史家の取り扱う歴史とは異なり、地質学者の対象とする歴史も精神分析学者のそれも、物質的世界、心的世界の基礎を成している幾つかの属性を活人画(タブロー・ヴィヴァン)に幾らか似た遣り方で、時間の中に投影しようとするのである。

<クロード・レヴィ=ストロース “どのようにして人は民族学者になるか”―『悲しき熱帯』1955(中公クラシックス2001)




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