Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

規律社会→管理社会→???

2013-08-17 16:09:50 | 日記

★ フーコーは規律社会を18世紀と19世紀に位置づけた。規律社会は20世紀初頭にその頂点に達する。規律社会は大々的に監禁の環境を組織する。個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと移行をくりかえすわけだが、そうした環境にはそれぞれ独自の法則がある。まず家族があって、つぎに学校がある(「ここはもう自分の家ではないぞ」)。そのつぎが兵舎(「ここはもう学校ではないぞ」、それから工場。ときどき病院に入ることもあるし、場合によっては監獄に入る。監獄は監禁環境そのものだ。類比的なモデルとなるのは、この監獄だ。

★ しかしフーコーは、規律社会のモデルが短命だということも、やはり知りつくしていた。規律社会のモデルは、目的と機能がまったく違った(つまり生産を組織化するというよりも生産の一部を徴収し、生を管理するというよりも死の決定をくだす)君主制社会の後を受けたものである。両者のあいだの移り変わりは段階的におこなわれ、一方の社会からもう一方の社会への重大な転換はナポレオンによって実行されたように思われる。しかし規律もやがて危機をむかえ、その結果、新たな諸力がゆっくりと時間をかけて整えられていく。しかし、新たな諸力もまた、第二次世界大戦後に壊滅の時代をむかえる。つまり規律社会とは、すでに私たちの姿を映すこともなく、もはや私たちとは無縁になりつつあった社会なのである。

★ 私たちは、監獄、病院、工場、学校、家族など、あらゆる監禁の環境に危機が蔓延した時代を生きている。家族とはひとつの「内部」であり、これが学校や職場など、他のあらゆる内部と同様、ひとつの危機に瀕しているのだ。当該部門の大臣は、改革が必要だという前提に立って、改革の実施を予告するのが常だった。学校改革をおこない、産業を、病院を、軍隊を、そして監獄を改革しようというのだ。しかし、ある程度長期的な展望で見ると、それらの制度にはもはや見込みがないということは、誰にでもわかっている。したがって、改革の名のもとに問題となっているのは、死に瀕した諸制度に管理の手をさしのべ、人びとに暇つぶしの仕事を与え、目前にせまった新たな諸力がしっかりと根をおろすのを待つことにすぎないのだ。こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである。

★ 規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としてもち、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ。旧来の通貨がモグラであり、このモグラが監禁環境の動物だとしたら、管理社会の動物はヘビだろう。私たちは前者から後者へ、モグラからヘビへと移行したわけだが、これは私たちが暮らす体制だけでなく、私たちの生き方や私たちと他者との関係にも当てはまることなのである。規律型人間がエネルギーを産む非連続の生産者だったのにたいし、管理型人間は波状運動をする傾向が強く、軌道を描き、連続性の束の上に身を置いている。いたるところで、サーフィンが従来のスポーツにとってかわったからである。

★ 昨今の状況を見ると、資本主義の目標は生産ではないことがわかる。現在の資本主義は生産を第三世界の周縁部に追いやっている。(……)いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである。だから現在の資本主義は本質的に分散的であり、またそうであればこそ、工場が企業に席をあけわたしたのである。

★ 私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいして、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度の貧困にあるという状態を、みずからの常数として保存しておいたということも、やはり否定しようのない事実なのである。借金をさせるには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。管理が直面せざるをえない問題は、境界線の消散ばかりではない。スラム街とゲットーの人口爆発もまた、切迫した問題なのである。

★ 不思議なことに大勢の若者が「動機づけてもらう」ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである。

<ジル・ドゥルーズ“追伸―管理社会について”;『記号と事件』(河出文庫2007)>






最新の画像もっと見る

コメントを投稿