★ オルガスムスの一瞬に生起する狂的な、また聖的な爆発といったものは、実は性愛現象という広大な全体のほんの一部分をなすにすぎず、むしろより本質的と言うべきは、その決定的な一瞬に到り着くまでの引き延ばされた欲望昂進の道程の方なのではないだろうか。本来は到達不可能であるべき究極の一点へ向かっての漸次的な接近の幻想そのものにこそむしろ性愛の名を与え、その一点への最終的な逢着のありように関してはただ生物学的な必然性としてのみ語ることにした方が当を得ているとさえ言うべきではないだろうか。
★ そもそも人間の性の独自な性格を動物の性と区別するものは、性欲の満足とそれ以後の受精・妊娠の過程ではなく、不充足状態のまま維持される欲望の輝きの方であるはずだ。欲求の充足ではなく欲望の持続そのものに性の本質を見てとり、緊張からの解放つまり弛緩に伴う特権的瞬間の悦楽ではなく、延引されてゆく緊張状態の持続を耐えることの終わりを知らない快楽の裡にこそ、人間の性のもっとも輝かしい側面を感受すべきなのではないだろうか。
★ 欲望とは決して脱=我の拡散のことではなく、そのかぎりにおいてここで「わたし」は完全に消失しさりはしない。欲望する「わたし」は、そこにあくまで在りつづけるのである。「わたし」は欲望し、かつ欲望する「わたし」自身を同時に意識してもいるのであり、その意味で「わたし」が自分を完全に喪失し尽くすことはありえない。
★ しかしまた、「わたし」の現前を前提とはしながらも、欲望とはそこにおいて、人であれ物であれ「わたし」ならざる他の何かを志向する以上、「わたし」の外へ絶えず溢れ出しつづける超出体験であるには違いない。
★ 欲望の中で、「わたし」はたしかに在る。だがそれはもはや堅固な自己同一性によって保障された真正の「わたし」ではない。それはいくぶんか「わたし」ならざるものへと変容しつつある「わたし」なのである。
★ そして、聖者のものでもなく狂者のものでもない、一応は正常と見なされるそうした日々の言語的実践において、人は程度の差こそあれそのつど絶えず「わたし」の新たな生成を生きているはずだと主張してみたい。語りながら、「わたし」は「わたし」の外へと溢れ出す。言葉によって「わたし」の外に連れ出されると言ってもよい。その理由は単純なものだろう。言語が、「わたし」にとって他者のシステムでしかないからだ。言語とはこの場合、日本語やフランス語というような固有の語彙と構文法を備えた記号の装置=体系としての国語(ラング)を指しているが、それがいかに母の国の言語と形容されるにせよ、言語と「わたし」との間には、乳児とその母との間に仮定されうるような想像的な溶融関係など絶えてありえた試しがない。世界を所有するには言語の媒介によるほかないのだが、にもかかわらず言語そのものを所有しみずからに同化し尽くすことはどうしてもできないということの逆説的な事態。象徴体系としての言語との関係を生きるにあたって、日々刻々「わたし」を引き裂きつづけるのはこのパラドックスである。
<松浦寿輝『官能の哲学』(ちくま学芸文庫2009)>
ぼくはあなたの”個人的な事情に”興味があります。
たしかに”趣味の問題”でもあります。
あなたと”住む世界”がちがっても、かまいません。
ぼくは”対話”を拒否しないから、あなたのコメントに応答してきましたが、このブログの目的が”対話”だけに(ましては”あなた”との対話だけに)あるわけではありません。
おたがい楽しくないことは、いいかげんやめましよう。
これじゃあ、「対話」というものになりません。
あなたは、「他者」というものをなんと思っているのですか。
あなたの個人的な事情なんか、あなたが思うほどには、他人にとってはどうでもいいことなのです。他人は、あなたが思うほどあなたに関心を持っているわけじゃない。
ここに書かれてあることに関心があるのです。
あなたの個人的な事情を書けば答えたことになるのですか。あなたが人間のスタンダードですか。僕は、人間のスタンダードはつねに自分の外部にある、と思っている。自分と世界の闘いにおいてはつねに世界を支援する立場に立つしかないと思っています。
あなたの個人的な事情を一方的に説明されても納得できるはずがないじゃないですか。何様のつもりかといいたくなるばかりです。その自己撞着はなんなのか、と。
僕が問いたいのは、人間の「快楽」や「生きられる意識」の根源的な形はどうなっているのかということですよ。あなたの個人的な事情ではない。
そういうことを表現した文章を引用されたから、それについて議論してみたかっただけです。そういう議論をするとっかかりの材料として提出したのではないのですか。
そしてこういうことを本気で考えようとするのなら、手狩りはもう自分で捜すしかないのかもしれないし、自分の手で掘り進んでいくしかないのかのかもしれない。
人が年をとれば、既成の歴史的な遺産をおもちゃのようにいじくりまわしているだけではすまなくなってくるのですよね。それが、雪山に座る、ということでしょう。すなわち、共同体の外に立った視線を持つ、ということは、あなただっていつもいっていることじゃないですか。
あなたがそうやっていつまで立っても歴史的遺産のおもちゃをいじくり回していようとするのは、雪山に座りたくない、ということかもしれない。
この先の手がかりはもう自分で探してゆくしかない、と思ったことはないのですか。
気取っていえば、誰だっていつかは「知の荒野」にひとりぼっちで放り出されるのですよ。
もう誰も当てにできない。
そいうことに二十歳で気づく人もいれば、僕みたいに50をとうに過ぎてからやっと気づくものもいるし、死ぬまで気づかないで既成の歴史的遺産をいじくりまわしつづける団塊世代もいる。
まあ、趣味の問題ですけどね。それでいいのなら、僕とはもうすむ世界が違うんだなあと思うしかない。
そうです、《話しがずれて》います。
松浦が“しっくりきて”も、それは松浦とぼくが、同じということではないし、ましてや、“ぼくと松浦が「普遍」に届いている”なんて、主張していません。
それに、ぼくは松浦というひとのみを引用しているわけではありません。
ぼくが引用している“ひとびと”のあいだにも、意見のちがいや、感覚のちがいは(おどろくほど)あるわけです。
なんども(たぶん)言っているように、ぼくは自分の主張のために誰かを“引用”しているわけではありません(多少そういうことがあるにしても、“意図的”であることは少ない)
ただし、“こういう意見もあり、こういう感覚もある”というカタログを意図しているわけでもない。
だいいちそういうカタログをつくるほど、ぼくは読めない。
だから“選択”はあるのだが、それはそうとう偶然でもあるわけです。
松浦というひとやその他のひとを、もっと読んで、いやになって、引用したことを後悔することもありえます。
そのときは、そう言いたいとは思います。
あなたを批判したいわけじゃないのです。
「わたし」を更新し続けることと、「わたし」を消去し続けることと、いったいどちらが人間性の基礎であり「普遍」なのかと問うているのです。
人間的な快楽や連携や文化のエッセンスは、どちらの心の動きにあるのか、ということです。
これは、いまの僕にとっては大問題なのです。
あなたがその松浦なんたらのいうことが「しっくりくる」というのなら、あなたたちのほうが「普遍」に届いているというところを説明してくださいよ。
バカにしたいわけじゃない。
たしかに「普遍」はどこにあるのか?ということで、こっちも読みながら考えてるわけ。
有名人だからありがたがっているんじゃなくて、”いろんなひと”から選んでいるだけ。
『楢山節考』は好きだったが、”雪山に坐る”という言葉は、ぼくの言葉じゃないと言った。
自分にぴったりくる、なんてどうでもいいことです。僕が考えているのは、自分なんか度外視した「普遍」というのはどこにあるのか、ということです。
そしてそれは、雪山に座ってみないと見えてこない。
世の中には、生まれつきの病気とか身体障害とかその他もろもろの被差別の立場に置かれて、雪山に座らされたまま生きている人はいくらでもいるし、リタイアしていようといまいと、とにかく誰もがひとまずそこに座ってみないことには人間の普遍とは出会えない。雪山で座ることもできないおまえら団塊世代が現代社会の同調圧力を批判しつつ世代論や西洋思想を語ってもしょうがない…彼は、そういっているんじゃないのですか。
まだ準備ができていないとか、そういう言い訳が許される問題じゃないでしょう。
あなただって雪山に座って考えている部分はあるのだし、そこで逃げ口上を打ってもしょうがないでしょう。そこで勝負するしかない。
「自分にぴったりこない」だなんて、ずいぶんバカにしてくれるじゃないですか。
僕は、「もともとはこうだった」といっているんじゃない。人間の普遍(自然)について考えているだけです。現代を生きているわれわれの中に残る痕跡として考えているつもりです。いつだって、「現在」を考えていますよ。ただの「オタク」な興味で書いているんじゃない。
いっちゃなんだけど、僕のブログにも東大教授の読者だっているし、最近コメントをくれた岩田勉という人は、東大からハーバードに行って、つくばの宇宙センターの所長になったロケットの専門家です。
そういう人たちを相手に回して、人間の普遍というのはこういうものだろう、というのはけっこう怖いですよ。雪山に座らされている覚悟で発言していますよ。世界中を敵に回してもいいたいことがありますよ。
だから、デリダに対してだって、あんたもただの俗物のフランス人だよ、といいますよ。
有名人だからといっていちいちにありがたがってなどいられないし、そんなところからお知恵を拝借するつもりもない。
ひさしぶりだね(笑)
まずあなたのブログを読んでないことはないです。
あなたの前のコメントでアドレスもらってから、しばらく読んでました。
このところ読んでいませんが、深い理由はないし、また読みます。
ぼくの引用は、(とくに最近は)、その日にぼくが読んでいる本なんです。
その日にぼくが読むのは、読みたいから、読み続けることができるからで。
そしてその読んだもののいちばん肝心だと感じた“部分”を引用すると。
“どうしてそうなのか”を実は、あんまり考えてないんです。
まず、“あなた”に喧嘩を売る気はまったくなかったし、ないです。
あなたのこのコメントで言われてみれば、それもそうだなと思うよ。
だからいま、ぼくが松浦寿輝を読める、ということが、知識人とか団塊とかいう人種の欠点なら、たしかに“ぼく”にもそういう欠陥があるということだと思うよ。
この言い方は、あなたをやり過ごすためではなく、なんか反論する気に今はなれないんだ。
ただどうもあなたの、“もともとそうだった”という理論は、ぼくにはぴったりこない。
やっぱ、知識人とか団塊とか近代に“欠点”があっても(あると思う)ぼくはまさにそれを抱えて生きている。
だから、“批判”しなくちゃいかん、とは思うよ。
だから、あなたが、“もともとはそうじゃなかった”という批判は、ひとつの批判として読む。
だが、松浦のように考えて、書く人もいて、“たまたま”かもしれないが、今のぼくはこの引用部分が好きだった―ということにすぎない。
ところで、ぼくはインポになってはおりません。
でも“雪山に坐る”準備はできていない(と言ったでしょ;笑)
しかしこの引用文は、僕がいま書いていることにとって「俺にけんかを売っているのか」と思わせられるものです。
僕は、「欲望」などというものはたんなる共同体の制度性だと思っています。
「わたし」がもうひとつの「わたし」に向かって超出する、ということだって、ただの制度性のはずです。
こういう「わたし」という概念にしがみつく言説が、この社会の病理だと思っています。知識人とか団塊世代なんか、みんなそういう人種なのだと思う。そうやって「わたし」にしがみつく言説の氾濫が、この社会の病理を深くしている。
オルガスムスは、いきなりやってくるのではない。じわじわそこに向かってゆくのであり、それは、小さな「わたし」の消失が折り重なってゆく体験のはずです。たとえば、抱きしめ合えば、「わたし」の体など忘れて「あなた」の体ばかり感じる。この消失体験からセックスが始まる。
セックスは、その最初から、「わたし」をまさぐる行為なんかじゃないのですよ。あなたたち知識人は、新たな自分への超出として勃起するのかもしれないが、われわれ庶民は、我を忘れてときめきながら勃起している。そうやって自分をまさぐってばかりいるから、インポになっちまうのだ。
「もうひとつのわたしへの超出」だなんて、まったく、霊媒師の憑依体験じゃあるまいし。
快楽は、我を忘れる体験としてもたらされるのであって、新しい「わたし」を発見することじゃない。そんなものは、知識人や団塊世代のいじましい自己撞着にすぎない。
僕は、松浦なんとかという人のこんな思考なんか、屁みたいに薄っぺらだと思っていますよ。
原初の直立二足歩行とは「わたし」が消失する体験だった。人間は、そこから生きはじめる…というのが、今自分のブログに書いていることです。だから、けんかを売られた、と思いました。
われわれに必要なのは、「新たなわたし」なんかじゃない、「わたしを忘れる=わたしが消える」体験こそ「生きられる意識」なのだ。そういう小さな「わたしを忘れる=わたしが消える」体験を紡ぎながらわれわれは生きている。少なくともわれわれ無知な庶民は。
これを「小さな死」ともいう。
言葉は「他者のシステム」なんかじゃないですよ。他人を意識して他人をたらしこもうと言葉をもてあそんでばかりいるから、そういう発想になる。言葉は他人を説得したりたらしこんだりする道具だと思っているから、そんなことを言い出す。「他者のシステム」だと思っているから、饒舌な詐欺師にもなるし、失語症にもなる。そんなことが、言葉の本質なんかであるものか。
言葉は、他者と「共有」しているシステムでしょう。そういう信憑がなければ、僕なんかひとことも発することができない。
言葉が自分の意識をつくっているのではない。自分の意識に溶けているものを言葉という。ことばなんか存在しないときから、意識はあったのですよ。したがって、言葉が意識をつくるということは論理的にありえない。
言語の根源は、「象徴体系」なんかじゃない。そんな機能は、あとの時代の制度性とともにつくられていった体系にすぎない。
言葉は、意識に溶け込むようにして生まれてきた。そういう「意識=私」を身体から引きはがす機能として生まれてきた。そうやって「我を忘れる」快楽の機能として生まれてきた。
オルガスムスだけが消失体験ではないのですよ。
息をしてほっとして息苦しさを忘れることだって、すでに消失体験であり、われわれはそういう「小さな死」を紡ぎながら生きている。
「もうひとつのわたしへの超出」だなんて「雪山に座る」ことができていない人の言説だと思いますよ。そんなことは普遍でもなんでもない。僕としては、それがこの人たちの限界かな、と思います。
セックスの快楽は、おまんこが気持ちいいのではない。われを忘れてちんちんの硬さと大きさに驚きときめいてゆくことだと思いますよ。