ぼくは読書計画を立て、なるべく“系統的に”(もちろん自分の基準でしかないが)本を読もうとする。
先日もこのブログに、“当面読む本”のリストさえ掲げた。
しかし、必ず、この計画通りに読めない。
自分が読めないはずの計画を立てたり、ましてや、ブログにそれを“公表”してしまうのは、自分にプレッシャーをかけたい(笑)からであろうか。
ただし先日の“当面読書”リストのうち、辺見庸『水の透視画法』のみは、今日にも読み終わるだろう(下のブログに書いたのもその一章である、またル・クレジオ『はじまりの時』は読了した)
昨日からまた(前に中断した箇所から)読んでいるのは、松浦寿輝『クロニクル』(東京大学出版会2007)である。
この“松浦寿輝”という名も、ぼくは相当前から知っていて、ずいぶん前に松浦の詩集は買ったことがあったのに、読んでいなかった。
ここ数年(たぶん去年から)彼の小説を数冊読んだ。
“数冊読んだ”からには、けっしてつまらなかったわけではないが、特に好きなわけでもない。
ぼくは、1954年前後に生まれた世代に関心があるのである(なぜかは不明;笑)
たとえば、松浦寿輝と四方田犬彦。
この二人の共通点は、たとえば、“ゴダール好き”だが、共通しない点(対立点!)も多いだろう。
さてこの『クロニクル』で今読んだ所にも、何人かの<名前>が出てきた;
吉本隆明、三島由紀夫、稲垣足穂、伊丹十三。
ぼくに関心があるのは、現在、これらの名はいかに認知されているのかということである。
まず“知っているか知っていないか”ということがあり、たとえばこの4人は、いつの時代の人だったか?というようなことも。
ぼくにとって?
ぼくにとっては、このなかでいちばん好きなのは、伊丹十三である。
いちばん読んだのは、吉本隆明である。<追記>
三島由紀夫も数だけは読んだが、なにも心に残っていない。
稲垣足穂は、まったく読んだことがない。
『クロニクル』に伊丹十三『女たちよ!』からの引用があった;
《 私自身は――ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない 》
しかしぼくが『女たちよ!』を読んだのは、半世紀近く前のような気がするし、この本はもうとっくにぼくの手元にない。
上記の言葉もまったく記憶してなかった。
ぼくにとっての“昔の名前”(日本人)のリストを書くなら、
寺山修司、岡本太郎、山本周五郎、谷川俊太郎、安部公房、三島由紀夫、石原慎太郎、植草甚一、伊丹十三などをあげることができる。
そして、吉本隆明と村上春樹(小林秀雄と司馬遼太郎は読んでいない;笑)
そして大江健三郎だけが、“現在”に残った。
たとえば、流行で、“岡本太郎”が現在に復活し、“上記の名”を知らないひとでも、《芸術は爆発だ!》を知っていることは、ぼくの記憶と係わりない。
しかし松浦寿輝の“世代”と、それより若い世代が、いかなる名前のリストを持っているかには、関心がある。
<追記;夜中に>
この“吉本隆明の記憶”という松浦の文章に引用されている、
《幼いころもわたしには、父の背中は鋼のようにおもえた。硬いというより色合いと匂いと言ったほうがよかったが》
という吉本隆明の文章についても、なにか書くつもりで、忘れた。
ぼくには《父の背中》の記憶はない。
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