Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
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ファシズムに抵抗する

2013-12-20 13:35:45 | 日記

★ これらの権力装置は、性を抑圧するのではなく、性について語らしめ、性に関する言説を膨大に生産する。従って、性は抑圧されているのではない。逆に、それは膨大に「生産され」、語られている。こうした理論は、権力による性の抑圧というフロイト=マルクス主義的理論を批判する点で、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・エディプス』を想起させる。

★ その意味において、ドゥルーズ=ガタリの仕事に関するフーコーの指摘は、倫理の問題――それは抵抗の問題と深く結びついている――への転回との関係において兆候的である。『アンチ・エディプス』の英訳のために書かれた「序文」(1977)において、フーコーはこのテクストに関する特異な見方を提示している。

★ フーコーによれば、『アンチ・エディプス』は反ファシズムの書である。ここでファシズムとは、単に1930-1940年代の歴史的状況を指すのではない。それはミクロ・ファシズム、つまり「私たち全員の中にあって、私たちの精神、日常の行動に取り憑いて離れないファシズム、私たちに権力を愛するよう強い、私たちを支配し搾取するもの自体を私たちに欲望させるようなファシズム」をも意味している。

★ 従って、反ファシズムとは、権力への服従化を欲望しないことを意味しているのである。ドゥルーズ=ガタリの概念を用いつつ、フーコーはこの点を次のように表現する。「多種多様化と位置移動によって、さまざまなアレンジメントを「脱個体化すること」」。フーコーは『アンチ・エディプス』をまさしく抵抗の理論として読む。そして、彼はその理論を「倫理」と名指している。

★ 倫理とは「生の様式(スタイル)、思考と生の様態(モード)」を意味している。そうした「生の様式」が権力への抵抗の戦略を意味するとすれば、「倫理」の問題系へのフーコーの転回が抵抗の戦略の探求であることを確認することができる。フーコーは、ドゥルーズ=ガタリの仕事に触発されるかのように抵抗の問題系へと移行するのである。

<佐藤嘉幸『権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』(人文書院2008)>





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