Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

加藤和彦の死が提起するもの

2009-10-18 13:18:35 | 日記

ぼくは加藤和彦というひとに、“こだわり”があるわけではない。
また、どのような死であろうと、そういう“個的な事態”をネタに、あるいはそれを“象徴化”して、さかしらに“社会論評”をするのは下品だと考える。

しかし、あえて言いたい。

なぜなら、最近“人の死”が3日で忘れられてしまうからだ。

まず下記ブログに引用した記事を、繰り返す;

★遺書には仕事への悩みがつづられており、30年以上、一緒に音楽制作に携わってきた友人は「自分の思うようなものができないと悩んでいた。若い時には当たり前のようにできたことができなくなり、そのジレンマが卓越した創造性を侵していき精神的に追いつめられていった」と説明。加藤さんは新曲作りを依頼した真琴つばさ(44)の関係者と13日に会った際には「うつで仕事が進まない。作品を書こうと思うとダメなんだ」と話していたという。(スポニチ)

★加藤さんと親しかった知人によると、加藤さんはうつ病を患っていたという。この知人には「もうやりたいことがすべてなくなった」などと綴った手紙を送っていた。他にも、フォークルの仲間だった北山修さん(63)ら親しい友人複数にも同様の手紙を送っていたとみられる。
 また、別の音楽関係者が1カ月ほど前に会った際には、「自分が思ったような音楽が作れなくなった」と悩みを明かしていた。死を選んだ軽井沢にはスタジオがあり、度々訪れるなどお気に入りの場所だった。(サンスポ)


ぼくはこの加藤和彦の死について、“老化社会”とか“しのびよる鬱の気配”ということを下記ブログに書いた。

さらにもっと具体的なことを書く必要を感じた。

加藤和彦のような“ニッポンのニューミュージック”や“J-POPの開拓者”の世代の人々は、<現在>、加藤和彦のようではないのだろうか?という疑問である。

それは、“ミュージック”に限らない。

けれどもミュージックに限って具体的述べるなら、現在も“活躍を続けている”日本ミュージックの“大物たち”というのは、加藤和彦が直面した<壁>にどう対峙しているのか?

彼らもまた、
《若い時には当たり前のようにできたことができなくなり》
《もうやりたいことがすべてなくなった》

のではないのだろうか。

それにもかかわらず、かれらの“新作”が、有名であるがゆえに売れ続け(売れ行きが落ちたにせよ)、かれらのコンサートが“昔の名前”で盛況であるらしいのは、いかなる誤魔化しであろうか。

たしかに数年前テレビで見ただけだが、井上陽水のコンサートでの“昔の曲”が、陽水の“年齢”によって、新しいアレンジによって、新しい演奏者の加入によって、“昔とはちがった”すぐれた表出を持つことがあった。
だがそのコンサートにおいても陽水の“新曲”はつまらなかった。

これはひとつの例(ぼくがたまたま見た)であるが、他の“アーティスト”は、そうではないのだろうか。

もちろんぼくの批判は、ぼくと近接世代のミュージシャンに向けられている“のみ”ではないし、“ニッポンのミュージシャンのみ”に向けられているのでもない。
ぼくの“誤解”かも知れないが、ここ数年、ぼくは“ポップス”の新譜への関心を完全に失った。

ひとことで言えば、現在の音楽シーンというのは、“ビートルズ以前”である。

“ビートルズ以前”にも音楽があったことを知らない“若者”が、現在の音楽しか知らないから、これは“しょうがない”事態なのだろうか。
つまり“ビートルズ以前”にも音楽はあったのである(笑)
“良い音楽”もあったのである。

また“ビートルズ”を特権化する必要もない。
ディランもビーチ・ボーイズもドアーズもいたのである。
ピンク・フロイドもキング・クリムゾンもレッドゼッペリンもT.レックスもストラングラーズもいたのである。

現在の“音楽シーン”が、彼らより“新しい音楽”をやっているなどとは、とうてい思えない。

またこれら海外ミュージックから“影響を受けて”開始した、このニッポン・ニューミュージックの“なれの果て”の光景に呆然とするのは、加藤和彦と同世代の“ぼく”という年寄りのみであろうか?

加藤和彦の死の彼自身による“説明”(遺書など)が、自分自身の行き詰まりにしか触れていないことは、彼の謙虚さである、優しさといってもよい。

しかし“その遺言”を額面どおりに受けとってよいのだろうか。

またしても“それで済まして”、マスメディアのように3日で忘れて、よいのだろうか。

加藤和彦には、この“ニッポン音楽シーン”に対する絶望と、それをどうにもできなかった自身への絶望があった“はず”である。

しかもこの“ニッポン音楽シーン”というのは、現在のニッポンの全状況に係わっているのだ。

音楽が死ぬのなら、“すべて”が死んでしまう。

ぼくが、このブログに掲げる<ことばの死>というのは、そういう意味だ。

だれも加藤和彦の遺言をまともに聞かないのなら、ぼくがここで言うほかなかった。




愚者の楽園 2

2009-10-18 10:48:35 | 日記

こないだ、このブログに、
《読売新聞の世論調査では、「新聞報道を信頼できる」という人は85%に上る》(読売編集手帳)という調査結果に対する疑問を述べた。
今日のおなじ編集手帳は以下のようである;

外国に〈統計とはビキニの水着のようなものだ〉と謎かけに似た箴言がある。そのこころは〈見えない所に物事の核心がある〉ということらしい。ちょっと品は良くないが正鵠を射ている◆様々な統計が毎日のように発表されるものの、複雑なこの時代、数字の中に何が見えるか、何を読み取るか、となると難しい。特に最近、各種の経済統計に対して「実感とずれている」と疑問の声が上がり始めた。(読売編集手帳)

つまりぼくにとっては《「新聞報道を信頼できる」という人は85%に上る》などという調査結果は、《実感とずれている》のである。
あるいは、《統計とはビキニの水着のようなものだ》なのである、《見えない所に物事の核心がある》(爆)


朝日新聞は、こういう調査-統計による“実証主義”に反して、“人情による泣き落とし”戦略に出る気らしい;

▼ 人の手で運ぶ新聞が温かいのは自然なことかもしれない。今年の新聞配達の代表標語も〈宅配で届くぬくもり活字の重み〉である。凍える朝でも嵐の夕でもいい。情報の重い束を運ぶ42万人に思いをはせたい▼新聞社はネットでも発信しているが、そこで再会するわが文は心なしか「誠意」を割り引かれている。特にコラムの場合、体裁の違いはそれほど大きい。どうか小欄は、ぬくもりを添えてお届けする「縦書き」でお読み下さい。(天声人語)

この文章は、あきらかな“誤謬(まちがい)”である。
もし新聞配達員の“肉体労働”の価値を言うなら、それは“新聞配達員”に限らない。
もっとハードな肉体労働がこの世にはある、ということではなく、すべての“労働者”は精神労働とともに肉体労働をしているからである。
そんなことは、“サラリーマン”をしているひとには、わかっている(分かり切っている)ことである。
わからないのは、朝日新聞や大学などで“知的労働のみ”しかしていない阿呆だけである。

さらに(笑)、
《新聞社はネットでも発信しているが、そこで再会するわが文は心なしか「誠意」を割り引かれている。特にコラムの場合、体裁の違いはそれほど大きい。どうか小欄は、ぬくもりを添えてお届けする「縦書き」でお読み下さい》
とは何事であろうか。

いったい<ぬ・く・も・り>とは、何のことであろうか!
文章表現とは、<オカルト>ではないのである。

<誠意>というのは、縦書きや横書きで変わるものであろうか。

ほんとうにバカも休み休み言ってほしい、つまり“毎日”こういう寝言を聞きたくない。
こういう寝言しか書いてないから、新聞配達員の努力もむなしく、新聞の購読者は減り続けるのだ。

“文章(言論)の力”というものがあり得るなら、それは、縦書きだとか横書きだとか、新聞配達員の労働とかとは、まったくちがう次元にあるのだ。

そこにおいては、言葉は自立しているのだ。

みずからの足で立っているのだ。


こういう記事もあった;

★遺書には仕事への悩みがつづられており、30年以上、一緒に音楽制作に携わってきた友人は「自分の思うようなものができないと悩んでいた。若い時には当たり前のようにできたことができなくなり、そのジレンマが卓越した創造性を侵していき精神的に追いつめられていった」と説明。加藤さんは新曲作りを依頼した真琴つばさ(44)の関係者と13日に会った際には「うつで仕事が進まない。作品を書こうと思うとダメなんだ」と話していたという。(スポニチ)

★加藤さんと親しかった知人によると、加藤さんはうつ病を患っていたという。この知人には「もうやりたいことがすべてなくなった」などと綴った手紙を送っていた。他にも、フォークルの仲間だった北山修さん(63)ら親しい友人複数にも同様の手紙を送っていたとみられる。
 また、別の音楽関係者が1カ月ほど前に会った際には、「自分が思ったような音楽が作れなくなった」と悩みを明かしていた。死を選んだ軽井沢にはスタジオがあり、度々訪れるなどお気に入りの場所だった。(サンスポ)

昨日のブログで書いたように、加藤和彦のようなひとの死というのは、“特殊な死”である(つまりかれは“有名人”だから)

しかし、《若い時には当たり前のようにできたことができなくなり》というのは、あらゆる“老人”の問題でもある。

つまりぼく自身の問題である。

日本は“老化社会”に入っていくのだから、これは日本社会全体の問題なのだ。

《もうやりたいことがすべてなくなった》 という“鬱の気配”こそが、ぼくらの危機なのだ。

いまここにある危機だ。

そういう危機に対して、マスメディアは、ひとことも触れることができない。