Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

雑学者の夢;世界を読む方法

2009-10-01 20:28:46 | 日記

★ 読書には奇妙な性格がある。以前に読んだ書物を何年かの後に読もうとすると、全く覚えていないことがしばしばある。自分がかつて線を引いて読んだ書物を、まるで初めて開くような体験をする。そんなときには狼狽することもある。自分は一体なにをしていたのか。しかしこんな経験を繰り返していると、読書には忘却がつきものだと覚悟を決めるようになる。われわれの読書とは記憶や想起のみならず、忘却をも構成要素とする経験ではないかと考えるようにさえなる。

★ 忘却とはわれわれが現実の世界を生きている証拠かもしれない。なにもかも覚えていれば、そこには未知なる経験の入り込む余地がないかもしれない。しかし最初に読んだときの理解や感動、あるいは理解の困難を克服しようとした経験は無意味だったのか。そうではないということが、読書という経験の不思議なところだ。たしかに細かい意味や個々の文章は覚えていなくても、ある書物という意味の時空間を通り抜けた経験は無意識のなかに沈殿している。書物とは物体ではない。生きている人間の経験のなかで変質もし、消滅もするテクストなのである。再読することは、埋もれた記憶を掘り起こす行為である。かつて読んだ書物の内容だけを思い出すのではない。忘却のあいだに経験した世界によって、変形された記憶として想起することなのである。読書とはわれわれの生命と離れがたいものであり、世界を認識する知性とも分かちがたいものなのである。

★ 私がどんな本を読んだか、書目を挙げることは他人にとって意味はない。むしろ読書とはかくも曖昧な、しかし生命のように生きた経験である、ということを論じた方がよほど適切であろう。私は読むだけでなく、自らの関心にしたがって書く者でもあるが、はたして書くことと読むことはどれほど隔たっているものだろうか。おそらくそれは遠くにあるものではない。読書の行為そのものが、じつは時空間にわたる一つのテクストをなしている。読書という経験からみると、私自身がこのようなテクストにほかならないのである。

★ ここで挙げたいくつかの書物は、私の読書経験のなかでもきわめて大きな意味をもつものだけに限られているが、それを語るとき、つねに念頭にあったのはその本を読んだという私自身の経験そのものである。「1900年頃のベルリンの幼年時代」を読まなかったら、あるいは『臨床医学の誕生』を読まなかったら、私の想像力はどれほど貧しいものになったであろうか。だから、こうして本書で語ったことが、それぞれの著者についての論と勘違いされたり、雑学者たる自己が決定的に影響を受けたのが意外にもまっとうな書物ではないかと思われたりすることを恐れつつも、こうした書物を読むことが世界というものの諸関係を手さぐりで知ろうとすることにほかならないということを伝えたかったのである。

<多木浩二『雑学者の夢』(岩波書店・グーテンベルクの森2004)>



★ 奥行きのあることばを理解するためには非常に時間がかかる。苦労も時間もかかるだけではない。何回生まれかわってもだめなものはだめでもある。ことばを理解するためには、あるいはことばを発するためには、少なくとも、自分からなにももちだしなしでやろうという、そんなぶったくり根性は許されない。自分が傷つくことなしに、あるいは他者を傷つけることなしに、ことばを円滑にだしたり入れたりするということはできない。安直すぎて、結局、自分が荒んでいく。

★ 本や映画、それから音楽でも、動物的なぼくの心がもうすこし凪いできたら、昔、気になったものを、虚心になって見なおしてみたいとおもっていた。いまその最中なのです。そういう意味ではいま、生きているということに、まあ、感謝もしているのだけれども、それらの作品の出来のよさにびっくりしています。ベルイマンの『サラバンド』とかね。こんなすばらしいものがあるのだったら、つまらないものをぼくが書くことはないとおもう。いまは、偉大な芸術にであうとだめです。KOされるだけ。もうほとんどそれに感謝するだけで終わってしまう。

<辺見庸『しのびよる破局』(大月書店2009)>