昨夜(今朝)は、(いつものように)くだらない映画をテレビで見て、その間、台風情報なども見て3時過ぎまで起きていた(今日は仕事がないので)
さいわい(というのだろうか)、ぼくの住んでいる地域は、雨も風もたいしたことはなかった――現在は、ぴかぴか天気である!
さて、“本”のはなしにしよう(笑)
もう一昨年(2007)になるのだが、ぼくは辞典のように厚い、“立方体”状態の本を買ったのだった、とうぜん高価であった。
ぼくは本を机の上に置いて読む習慣がないので、この本を手に持って読むのはシンドイのである。
しかし時々、重くかつ四角いこの本を、手でささげもって読んでいると、なかなか面白いのである。
ぼくの腕の筋肉の耐久時間も、徐々に増していくのであった。
今日は、94ページまで来た。
この本の“テーマ”は、“ナショナリズム”とか“ネーション”と呼ばれるものであるが、そういうテーマが、<現在>を考えることの核心にあるとあなたが思うか否かにかかわらず、この本は読む価値があると思える。
まずこの本の‘あとがき’から引用しよう;
★ 社会学という知は、近代の自己意識である。近代が近代自身へと差し向けた反省的な知の結晶として、社会学は生れた。
★ ところで、ナショナリズムは近代社会に固有な現象である。ミクロなレベルでは個我の登場に近代の特徴を見ることができるとすれば、マクロなレベルでは、ナショナリズムこそが、近代を特徴づける最も重要な現象であろう。だが、近代を探究する者、近代を知る者にとって、ナショナリズムは躓きの石である。
★ 本書において、私は、二つのことに留意した。第一に、「理論性」であり、第二に、「固有名」である。探究は、十分な理論的深度をもっていなくてはならない。社会科学的な探究では(略)探究者の「立場性」が問われる。社会構造のどの位置から見たり、語ったりしているのかが、問われるのだ。立場性の桎梏に対抗できるのは、透徹した理論のみである。このことを示すためにも「固有名」に拘らなくてはならない。そもそも、「固有名」が登場しない歴史書や社会科学の論文はつまらない。しかし、理論が指向する普遍性と、固有名が照準する特異性とは、矛盾すると考えている人がいる。だが、それは間違いである。真に普遍的なものだけが、特殊性の襞に触れるのである。
本文からも引用してみよう;
★ たとえば(略)ネーションの成立にとって、しばしば、「国民的言語(国語)」の確立は、中核的な意義をもつ。ある国語を日常的に使用しているということが、国民的帰属意識を喚起する媒体となるのだ。しかし、ネーションの成立に先立って、あらかじめ言語の分布が与えられており、それに合わせてネーションが形成されるわけではない。たとえば、フランス革命の時点で、フランス国土でいわゆる「フランス語」を話す人の数は、半分にも満たないと言われている。そもそも、厳密に言えば、ネーションの成立に先立っては、フランス語とか日本語とかいった言語の同一性そのものが存在していないのだ。国語は、ネーションにおいて、人々の日常の言語(俗語)への管理(教育)を通じて、創出されなくてはならない。ある言語が国語になったときには、必ず、自分自身の話し言葉がその「国語」に近い人々の層と、「国語」から遠い位置に置かれている人々の層とが生み出されるだろう。
★ ナショナリズムという規定において普遍主義と特殊主義が交錯する以上は、ネーションの内部に必然的に不平等を孕まざるをえない。アンダーソンは、国民の間に「たとえ現実には不平等と搾取がある」場合でも、それは平等な共同体として想像されるのだ、と説明している。しかし、この留保は、もっと強い言い方に変えなくてはならない。すなわち、ネーションは、必ず不平等を有するが、平等な共同体として想定される、と。なぜならば、まさにその平等性の仮定こそが、かえって不平等を帰結するからである。ネーションの現実に不平等が存在しているということと、ネーションが想定の上で平等であることとは、同じ事態の二側面なのである。だから、程度の差はあれ、ネーションにおいては、民族的少数派の問題は不可避である。この問題は、ネーションの境界線をあらためて設定しなおすといった方法によっては、――新たにできあがった集団が再びネーションであろうとするならば――暫定的にしか解決されない。民族的少数派とは、たまたまネーションが内部にかかえこんでしまった異和的な集団ではない。それは、どんなネーションも有する二つの条件の間の乖離から不可避に生ずる、ネーション内部の統合されざる残滓なのである。
<大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社2007)>
さいわい(というのだろうか)、ぼくの住んでいる地域は、雨も風もたいしたことはなかった――現在は、ぴかぴか天気である!
さて、“本”のはなしにしよう(笑)
もう一昨年(2007)になるのだが、ぼくは辞典のように厚い、“立方体”状態の本を買ったのだった、とうぜん高価であった。
ぼくは本を机の上に置いて読む習慣がないので、この本を手に持って読むのはシンドイのである。
しかし時々、重くかつ四角いこの本を、手でささげもって読んでいると、なかなか面白いのである。
ぼくの腕の筋肉の耐久時間も、徐々に増していくのであった。
今日は、94ページまで来た。
この本の“テーマ”は、“ナショナリズム”とか“ネーション”と呼ばれるものであるが、そういうテーマが、<現在>を考えることの核心にあるとあなたが思うか否かにかかわらず、この本は読む価値があると思える。
まずこの本の‘あとがき’から引用しよう;
★ 社会学という知は、近代の自己意識である。近代が近代自身へと差し向けた反省的な知の結晶として、社会学は生れた。
★ ところで、ナショナリズムは近代社会に固有な現象である。ミクロなレベルでは個我の登場に近代の特徴を見ることができるとすれば、マクロなレベルでは、ナショナリズムこそが、近代を特徴づける最も重要な現象であろう。だが、近代を探究する者、近代を知る者にとって、ナショナリズムは躓きの石である。
★ 本書において、私は、二つのことに留意した。第一に、「理論性」であり、第二に、「固有名」である。探究は、十分な理論的深度をもっていなくてはならない。社会科学的な探究では(略)探究者の「立場性」が問われる。社会構造のどの位置から見たり、語ったりしているのかが、問われるのだ。立場性の桎梏に対抗できるのは、透徹した理論のみである。このことを示すためにも「固有名」に拘らなくてはならない。そもそも、「固有名」が登場しない歴史書や社会科学の論文はつまらない。しかし、理論が指向する普遍性と、固有名が照準する特異性とは、矛盾すると考えている人がいる。だが、それは間違いである。真に普遍的なものだけが、特殊性の襞に触れるのである。
本文からも引用してみよう;
★ たとえば(略)ネーションの成立にとって、しばしば、「国民的言語(国語)」の確立は、中核的な意義をもつ。ある国語を日常的に使用しているということが、国民的帰属意識を喚起する媒体となるのだ。しかし、ネーションの成立に先立って、あらかじめ言語の分布が与えられており、それに合わせてネーションが形成されるわけではない。たとえば、フランス革命の時点で、フランス国土でいわゆる「フランス語」を話す人の数は、半分にも満たないと言われている。そもそも、厳密に言えば、ネーションの成立に先立っては、フランス語とか日本語とかいった言語の同一性そのものが存在していないのだ。国語は、ネーションにおいて、人々の日常の言語(俗語)への管理(教育)を通じて、創出されなくてはならない。ある言語が国語になったときには、必ず、自分自身の話し言葉がその「国語」に近い人々の層と、「国語」から遠い位置に置かれている人々の層とが生み出されるだろう。
★ ナショナリズムという規定において普遍主義と特殊主義が交錯する以上は、ネーションの内部に必然的に不平等を孕まざるをえない。アンダーソンは、国民の間に「たとえ現実には不平等と搾取がある」場合でも、それは平等な共同体として想像されるのだ、と説明している。しかし、この留保は、もっと強い言い方に変えなくてはならない。すなわち、ネーションは、必ず不平等を有するが、平等な共同体として想定される、と。なぜならば、まさにその平等性の仮定こそが、かえって不平等を帰結するからである。ネーションの現実に不平等が存在しているということと、ネーションが想定の上で平等であることとは、同じ事態の二側面なのである。だから、程度の差はあれ、ネーションにおいては、民族的少数派の問題は不可避である。この問題は、ネーションの境界線をあらためて設定しなおすといった方法によっては、――新たにできあがった集団が再びネーションであろうとするならば――暫定的にしか解決されない。民族的少数派とは、たまたまネーションが内部にかかえこんでしまった異和的な集団ではない。それは、どんなネーションも有する二つの条件の間の乖離から不可避に生ずる、ネーション内部の統合されざる残滓なのである。
<大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社2007)>