Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ネイチャー

2009-10-19 10:54:12 | 日記

あることが、“よくいわれている”と、そのことがなにを意味しているかを考えないで、スーっと受け入れて(読んで)しまう。

たとえば“自然が失われてきた”とか、“自然が失われている”ということの、“意味”である。

いま、“自然が失われている”と言われて、その“意味”を理解しないひとは(たぶん)いない、小学生だって、理解するだろう。

けれどもぼくがここで、近年の日本やアメリカの映画・テレビドラマには、“自然が失われている”と言ったら、それを“理解する”、あるいはそれに“共感する”ひとは、どれだけいるだろうか。

また、“理解”したり、“共感”するひとも、ぼくと同じ“意味”を共有するだろうか。

具体例をあげると、アメリカンのTVドラマ「CSIマイアミ」のような作品がわかりやすい。
だが、このドラマを見たことがある日本人が、どれだけいるかもわからない。
だから説明しなければならないのだが、これがぼくには億劫なのだ。
要するにマイアミを舞台にする“科学捜査班”ものですよ。

このドラマのパターンは、どれも同じである。
どんな殺人事件が起こっても、そこでは殺すものと殺されるものの“葛藤”は問題ではない。
むしろ“捜査班”内部の人間関係において、“人と人との関係=葛藤”が描かれるのかと思うと、そうでもない(笑;“多少”は描かれるが)
つまりこのドラマにおいては、“人間の関係”などというものは(本当は)どうでもいい。
じゃあ、何が“問題”か。

“科学捜査”である。

つまり“難事件”現場から、いかに“証拠物件”を収集し、それを最新テクノロジーを用いていかに解明するか、その“スムース”な展開が、このドラマの快楽なのだ。
このことは“昔の”アメリカTVドラマ「ロウ&オーダー」の初期と比較すれば明瞭である(このドラマも現在日本でリピート放映されている)

「ロウ&オーダー」においては、主人公の男女ペア刑事の活躍を中心に、法廷での裁判闘争を含めた“人間の葛藤”に主題があり、“テクノロジー”はまだ前景に出てこない。

しかし、ぼくが上記を書いてきたのは、“自然の消滅”について考えるためである。
「CSIマイアミ」においては、マイアミが舞台なので、海岸やその縁に立ち並ぶ高層ビル・ホテルの景観は繰り返し映し出されるが、それが、カラー加工を施された不思議な着色映像なのである。
つまり“自然”が“自然な色”を失っている。
このような“映像”は、実写であるにもかかわらず、“アニメ”映像に近いのだ。

ぼくはマイアミに行ったことがないので知らないが、もともとマイアミ中心部というのは“人工的な”環境なのだと思う。
このドラマは、その人工性をさらに強調している。

しかしぼくはこのドラマをけなし、その反自然性を告発するためにこのブログを書いているのではない、
だいいち、ぼくはこのドラマを“見ている”のである。
つまりくだらない“ヒューマン・ドラマ”を見せられるより、テクノロジーによるワンパターン解決のほうが、気持が良いからである。

けれども、これでよいのであろうか?(笑)

なぜ<自然>であってはならないのだろうか。

またこの自然のなかの<人間>というものは、もっとゴチャゴチャ-グチャグチャしたものではないのだろうか。

たしかにもはや、“手つかずの自然”などというものは、この地球のどこにもないのである。
“風景”はすでに人工化されている。
“都市”だけではない。
ぼくたちが、“都会を離れた美しい自然”と感知するものも、人工的である。
なぜなら、この地上のすべてに“人間の手が触れた”からである。
しかしその“人間”も自然であった、いや現在においても自然である。

人間とそれをとりまくものの<自然性>ということは、まだ解明されえない“テーマ”だと考える。
だから、《自然が失われてきた、自然が失われている》ということについて、“わかりきった”ことなど、ひとつもない。

つまり、もはやぼくらが“自然に癒される”ことを、必要としていない、などということは言えないのだが、その場合の<自然および自然性>についてまだ考えることは、ある。

なぜなら、ぼくらは今日の日差しや、雲の動きや、風や、視えない星々に“感応”しているからである。

映画(映像)や音楽やある種の文章に感動するとき、ぼくたちは<それ>を感受している。

ぼくたちの肉につつまれた海を感受している。