今日は、下記ブログを読んでほしいので、次のブログを書く気はなかった。
しかし各メディアの社説・コラムが、一斉に“オバマ・ノーベル平和賞”について書いているのを見て、ブログを書く必要が生じた(天木直人ブログ、不破利晴ブログもこのニュースを扱っている)
メディアの“意見”のサンプルとしては、読売・編集手帳と天声人語を最後に掲げるので読んでないひとは、ぼくのこのブログが“なにを批判しているのか”のサンプルとして参照してほしい。
まずぼくの立場をいっておくが、ぼくは“あらゆる核兵器”の廃絶を望む。
そうでない立場など、まったく認めない。
だから、ぼくの“オバマ・ノーベル平和賞”に対する評価は、“あらゆる核兵器の廃絶”にとってこのノーベル賞の決定が、意味があるか否かである。
ぼくの感想はシンプルである。
この決定は意味がないし、こういう“パーフォーマンス”に頼る世界であるかぎり“あらゆる核兵器の廃絶”は不可能であると考える。
またしても、ぼくらは“強いアメリカの強い指導者”が“世界をたばねる”ことに期待するのであろうか。
読売は言う;
《唯一の被爆国である日本には、白いキャンバスの前で大統領と一緒に悩む使命があるだろう。悩むだけの価値がある「絵」である》
しかし《大統領と一緒に悩む使命》とは、いったいどのような“使命”であり、ぼくたちは、その“使命”をどのように実行すればよいのだろうか。
なぜアメリカの大統領と“一緒に”悩まなければならないのだろうか。
ぼくは“ただひとり”でも悩むし、“あなた”と“一緒”なら悩んでもいい。
もちろん、オバマのノーベル平和賞に“浮かれる”ような人々は、“ただひとりで悩むし、あなたと一緒に悩む”ような<実存(現実存在)>は、この“駆け引きとしての世界では無効である”と“信じて”いるのだ。
ぼくは“駆け引きとしての国際政治”を認めるなら、“核兵器の廃絶”など未来永劫不可能だと確信している。
もちろん“ノーベル賞”自体が、“政治的駆け引き”の場ではないか。
《おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サイ》
天声人語氏を感動させた一首である。
ぼくもこれがきらいではない。
しかし、“宇宙を走りゆく光と声”は、ヒロシマ、ナガサキのみではない。
もしこの“歌”を、自然科学的に考えるなら、“あらゆる人類史”は、宇宙をさまよっているはずだ。
あらゆる光と声が、である。
“原爆”はこの人類史的悲惨と愚劣の<象徴>である。
ならば<アウシュビッツ>も<パレスチナ>もそういう象徴である。
“アメリカUSA”も、現在世界の象徴であり、“オバマ”はその世界の指導者として“象徴で”あり、その“世界の指導者”にノーベル平和賞を授与することが、世界平和の“象徴”なのである(ついでに“日本国”の象徴が誰であるかを知らない人はいない)
ぼくは、こういう“象徴”の連鎖にウンザリする。
このことこそが、“戦争のない世界の実現”を阻害しているのではないかと、考える。
“象徴”によって支配される世界は、魔術的世界ではないのかと、疑うのである。
ぼくが理解する<近代>における新しい認識というのは、魔術的世界を脱する“理性的な認識=言葉”の世界であるはずだった。
それはまず、魔術的世界を脱するのがいかに困難か、という“認識”によって開かれる。
つまり、いつもぼくがこのブログで言おうとしていることは(うまく言えていないことは)、現在、”現実“とか、”リアル“とか、”具体的“とか、”実証的“とか、”実効的“とか言われていること(言葉)が、まったく反対の”魔術的言葉“ではないのかという”疑い“なのだ。
“観念的でない”生活者こそ、魔術的な言葉に対する“免疫”を持ち得ないのではないかという“疑い”なのだ。
まさに“世界の指導者”と、その言葉を撒き散らすためだけに存在しているマスメディアは、永久に魔術的言語による、魔術的世界支配を継続せんとしている。
その魔術的世界では、“戦争の具体性”は消滅しないし、“核兵器”も消滅しようがない。
たしかにぼくのこのブログも充分ではない。
しかし“誤解”しないでいただきたいのは、ぼくが、ペシミストでもニヒリストでも皮肉屋でも、アイロニー好きでも、レトリック好きでも“ない”ということだ。
もしそういう“気分”でしかなくなったら、ぼくは自分のブログを全消去する。
ぼくが書き続けるのは、ぼくが読みうる言葉を検討することである。
自分の言葉を検討するためである。
この人生と世界が、“言葉のみ”で成り立っているか否かはさだかでないが、“ブログ”は、言葉のみで成り立っている。
<参考>
描きたい風景は頭のなかにあり、絵筆も握ってはいるが、キャンバスはまだ真っ白のままである。そのキャンバスが名画として激賞され、権威ある美術賞に選ばれたとしたら、画家は喜ぶよりも先に悩み、苦しむだろう◆脳裏の構図を絵の具と筆でいかにして形にし、賞の重みに堪える絵に仕上げていくか…。今年のノーベル平和賞に選ばれた米国のオバマ大統領はいま、作品があまりに早く絶賛されてしまった画家の心境かも知れない◆大統領の打ち出した〈核兵器なき世界〉はまだ構想の手前、願望に近い手つかずの絵である。「称賛とは借金のようなもの」と、褒められることの重圧を語ったのは英国の詩人サミュエル・ジョンソンだが、その重圧を梃子にして「絵」の完成を迫るのがノーベル賞委員会の意思であったろう◆「核廃絶」の理想と「核の抑止力」という現実をどういう線で結ぶのか――賞をいわば“前借り”してしまった大統領の筆遣いを世界の目が見つめている◆唯一の被爆国である日本には、白いキャンバスの前で大統領と一緒に悩む使命があるだろう。悩むだけの価値がある「絵」である。<読売・編集手帳>
一読したとたんに胸に突き刺さり、ノートに書き取っておいた一首がある。〈おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サイ〉。岩井謙一さんという戦後生まれの歌人が詠んだ。二つの光とは広島と長崎に投下された原子爆弾のことだという▼「水ヲ下サイ」はあの日、地の底からわくようにして空へのぼっていった、瀕死(ひんし)の声、声、声だろう。光も声も、消えてはいない。いまも暗黒の空間を飛び続けている。歌人の想像力は、原爆の「原罪性」を、読む者に突きつけてくる▼罪深い兵器を廃絶して、「核なき世界」をめざそうと唱えるアメリカのオバマ大統領が、今年のノーベル平和賞に決まった。現職の国家首脳の受賞は、9年前に韓国大統領だった故金大中氏が、南北和解への貢献を理由に受賞して以来になる▼オバマ氏は、何かをなしての受賞ではない。だが歴史的とされるプラハ演説を源に、核軍縮の川は流れ出した。国連安保理も巻き込んで川幅は広がっている。それを涸(か)らしてはならないという、ノーベル賞委員会の意思表明でもあろう▼長崎で被爆した作家の林京子さんが、この夏、小紙に語っていた。「人間らしい形を残さない姿で死ぬ人たちを見ました。人間がこんなにおとしめられていいのか、という思いが私の原点です」。同じ思いを、オバマ氏の原点にもしてほしいと願う▼〈燃え残り原爆ドームと呼ばれるもの残らなかった数多(あまた)を見せる〉谷村はるか。聡明(そうめい)な大統領のこと、被爆地訪問がかなうなら、必ずさまざまな真実を「見る」はずである。<朝日・天声人語>
Ah, because the world is round
it turns me on
Because the world is round
Ah, because the wind is high
it blows my mind
Because the wind is high
Ah, love is old,
love is new
Love is all,
love is you
Because the sky is blue
it makes me cry
Because the sky is blue
Ah, ah, ah, ah
しかし各メディアの社説・コラムが、一斉に“オバマ・ノーベル平和賞”について書いているのを見て、ブログを書く必要が生じた(天木直人ブログ、不破利晴ブログもこのニュースを扱っている)
メディアの“意見”のサンプルとしては、読売・編集手帳と天声人語を最後に掲げるので読んでないひとは、ぼくのこのブログが“なにを批判しているのか”のサンプルとして参照してほしい。
まずぼくの立場をいっておくが、ぼくは“あらゆる核兵器”の廃絶を望む。
そうでない立場など、まったく認めない。
だから、ぼくの“オバマ・ノーベル平和賞”に対する評価は、“あらゆる核兵器の廃絶”にとってこのノーベル賞の決定が、意味があるか否かである。
ぼくの感想はシンプルである。
この決定は意味がないし、こういう“パーフォーマンス”に頼る世界であるかぎり“あらゆる核兵器の廃絶”は不可能であると考える。
またしても、ぼくらは“強いアメリカの強い指導者”が“世界をたばねる”ことに期待するのであろうか。
読売は言う;
《唯一の被爆国である日本には、白いキャンバスの前で大統領と一緒に悩む使命があるだろう。悩むだけの価値がある「絵」である》
しかし《大統領と一緒に悩む使命》とは、いったいどのような“使命”であり、ぼくたちは、その“使命”をどのように実行すればよいのだろうか。
なぜアメリカの大統領と“一緒に”悩まなければならないのだろうか。
ぼくは“ただひとり”でも悩むし、“あなた”と“一緒”なら悩んでもいい。
もちろん、オバマのノーベル平和賞に“浮かれる”ような人々は、“ただひとりで悩むし、あなたと一緒に悩む”ような<実存(現実存在)>は、この“駆け引きとしての世界では無効である”と“信じて”いるのだ。
ぼくは“駆け引きとしての国際政治”を認めるなら、“核兵器の廃絶”など未来永劫不可能だと確信している。
もちろん“ノーベル賞”自体が、“政治的駆け引き”の場ではないか。
《おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サイ》
天声人語氏を感動させた一首である。
ぼくもこれがきらいではない。
しかし、“宇宙を走りゆく光と声”は、ヒロシマ、ナガサキのみではない。
もしこの“歌”を、自然科学的に考えるなら、“あらゆる人類史”は、宇宙をさまよっているはずだ。
あらゆる光と声が、である。
“原爆”はこの人類史的悲惨と愚劣の<象徴>である。
ならば<アウシュビッツ>も<パレスチナ>もそういう象徴である。
“アメリカUSA”も、現在世界の象徴であり、“オバマ”はその世界の指導者として“象徴で”あり、その“世界の指導者”にノーベル平和賞を授与することが、世界平和の“象徴”なのである(ついでに“日本国”の象徴が誰であるかを知らない人はいない)
ぼくは、こういう“象徴”の連鎖にウンザリする。
このことこそが、“戦争のない世界の実現”を阻害しているのではないかと、考える。
“象徴”によって支配される世界は、魔術的世界ではないのかと、疑うのである。
ぼくが理解する<近代>における新しい認識というのは、魔術的世界を脱する“理性的な認識=言葉”の世界であるはずだった。
それはまず、魔術的世界を脱するのがいかに困難か、という“認識”によって開かれる。
つまり、いつもぼくがこのブログで言おうとしていることは(うまく言えていないことは)、現在、”現実“とか、”リアル“とか、”具体的“とか、”実証的“とか、”実効的“とか言われていること(言葉)が、まったく反対の”魔術的言葉“ではないのかという”疑い“なのだ。
“観念的でない”生活者こそ、魔術的な言葉に対する“免疫”を持ち得ないのではないかという“疑い”なのだ。
まさに“世界の指導者”と、その言葉を撒き散らすためだけに存在しているマスメディアは、永久に魔術的言語による、魔術的世界支配を継続せんとしている。
その魔術的世界では、“戦争の具体性”は消滅しないし、“核兵器”も消滅しようがない。
たしかにぼくのこのブログも充分ではない。
しかし“誤解”しないでいただきたいのは、ぼくが、ペシミストでもニヒリストでも皮肉屋でも、アイロニー好きでも、レトリック好きでも“ない”ということだ。
もしそういう“気分”でしかなくなったら、ぼくは自分のブログを全消去する。
ぼくが書き続けるのは、ぼくが読みうる言葉を検討することである。
自分の言葉を検討するためである。
この人生と世界が、“言葉のみ”で成り立っているか否かはさだかでないが、“ブログ”は、言葉のみで成り立っている。
<参考>
描きたい風景は頭のなかにあり、絵筆も握ってはいるが、キャンバスはまだ真っ白のままである。そのキャンバスが名画として激賞され、権威ある美術賞に選ばれたとしたら、画家は喜ぶよりも先に悩み、苦しむだろう◆脳裏の構図を絵の具と筆でいかにして形にし、賞の重みに堪える絵に仕上げていくか…。今年のノーベル平和賞に選ばれた米国のオバマ大統領はいま、作品があまりに早く絶賛されてしまった画家の心境かも知れない◆大統領の打ち出した〈核兵器なき世界〉はまだ構想の手前、願望に近い手つかずの絵である。「称賛とは借金のようなもの」と、褒められることの重圧を語ったのは英国の詩人サミュエル・ジョンソンだが、その重圧を梃子にして「絵」の完成を迫るのがノーベル賞委員会の意思であったろう◆「核廃絶」の理想と「核の抑止力」という現実をどういう線で結ぶのか――賞をいわば“前借り”してしまった大統領の筆遣いを世界の目が見つめている◆唯一の被爆国である日本には、白いキャンバスの前で大統領と一緒に悩む使命があるだろう。悩むだけの価値がある「絵」である。<読売・編集手帳>
一読したとたんに胸に突き刺さり、ノートに書き取っておいた一首がある。〈おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サイ〉。岩井謙一さんという戦後生まれの歌人が詠んだ。二つの光とは広島と長崎に投下された原子爆弾のことだという▼「水ヲ下サイ」はあの日、地の底からわくようにして空へのぼっていった、瀕死(ひんし)の声、声、声だろう。光も声も、消えてはいない。いまも暗黒の空間を飛び続けている。歌人の想像力は、原爆の「原罪性」を、読む者に突きつけてくる▼罪深い兵器を廃絶して、「核なき世界」をめざそうと唱えるアメリカのオバマ大統領が、今年のノーベル平和賞に決まった。現職の国家首脳の受賞は、9年前に韓国大統領だった故金大中氏が、南北和解への貢献を理由に受賞して以来になる▼オバマ氏は、何かをなしての受賞ではない。だが歴史的とされるプラハ演説を源に、核軍縮の川は流れ出した。国連安保理も巻き込んで川幅は広がっている。それを涸(か)らしてはならないという、ノーベル賞委員会の意思表明でもあろう▼長崎で被爆した作家の林京子さんが、この夏、小紙に語っていた。「人間らしい形を残さない姿で死ぬ人たちを見ました。人間がこんなにおとしめられていいのか、という思いが私の原点です」。同じ思いを、オバマ氏の原点にもしてほしいと願う▼〈燃え残り原爆ドームと呼ばれるもの残らなかった数多(あまた)を見せる〉谷村はるか。聡明(そうめい)な大統領のこと、被爆地訪問がかなうなら、必ずさまざまな真実を「見る」はずである。<朝日・天声人語>
Ah, because the world is round
it turns me on
Because the world is round
Ah, because the wind is high
it blows my mind
Because the wind is high
Ah, love is old,
love is new
Love is all,
love is you
Because the sky is blue
it makes me cry
Because the sky is blue
Ah, ah, ah, ah