再び、コートダ・ジュールの山里を訪れよう。
『オー・ド・カーニュ村』
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、それまでの「アカデミスム」一辺倒であった芸術の世界で、日常の中の光景を描くが形が現れた。
何らかの「哲学的テーマ」が必要で、人間の尊厳やら、人間の存在の崇高な価値やらを、古代のローマの名高い逸話に絡めて表現し、「この様な事を感じ取らなければならない」と大上段に構えて押し付けていた「画壇」のやり方に戸惑いを覚え、生活苦から都会を離れて郊外に住む様になり「自然」と「庶民の生活」の中に身を置いて製作を始めるに及んで産まれて来た『リアリスム(自然主義)』である。
それまで、一般市民に至るまで誰も「好奇心」を持たなかった、「小作人の日常」などを取り上げる様になった。
更にそこから、何らかの「主題」の背景に過ぎなかった「風景」自体を描き始めて、『風景画』と言うジャンルが確立して行く。
さらにその中から、屋外での製作が始まり、時間の経過で太陽の角度と光の強さが変わって行くに連れて、描いていた対象の色彩が変化する事に気がつく画家達が現れる。
それが『印象派』と呼ばれる一群の表現者達である。
明るいか暗いか、であって色彩には無関係だと思っていた「光」が、今の瞬間に与えている効果が、今目に移る「色彩」である、と言う事に気がついた。
印象主義者達に取っては、それまでの様に「何を描いてあるか」ではなく、描く事は「今の光が与える効果を表す対象」である、という感覚上のコペルニクス的大転換であった。
ヨーロッパの中でも、特に中央集権の強いフランスは、政治経済のみならず、学問も分化も芸術も、総てパリ及び周辺で生まれ動く。
そのパリに集まって修行した画学生達が、物価高で生活苦が酷くなり、パリを出て周辺に移りながら「田舎」の生活にふれ、そこから「日常生活」を題材にする製作に傾向が変わり始めて、上記したリアリスムが誕生して行った。
理解され無いから精神的に苦しみ、売れないから物質的に苦しみ、しかし彼等の活動が芸術を「学問」の高みから「日常」の位置へと下ろして行って、現代絵画を生んで行ったのだ。
そういう彼等も、齢を重ねるにつれて理解され認知されて、多少は安定して行くなかで、体力や視力の低下に悩んだ者達も多かった。
白内障に苦しみ、パリ首都圏の「光の乏しさ」から、より明るい光溢れる土地を目指し、首都圏の物価の高さから逃げ出す事と相まって、人生を終盤を『コート・ダジュール』で終わった画家が、何人も居る。
印象派から発展し、後期印象派、点描派、野獣派など、20世紀絵画に移行すると、増々「色彩」の多様性が表現に大きな位置を占める様になって行く。
そして、正しく『コート・ダジュール』こそが「光」と「色彩」との楽園であったのです。
プロヴァンスの村々は、四季の花々に被われて、底抜けに青い空と紺碧の海が有った。
『カーニュ・シュー・メール』村の一隅
ピエール・オーギュスト・ルノワールも、そんな一人だった。
ニースから西へほんの数キロで『カーニュ』とう小さな町がある。
海岸から背後の起伏にかけて広がる町で、海沿いの低地の部分を『Cagne-sur-Mer(カーニュ・シュー・メール)』と呼ぶ。
海岸のカーニュ。
高みを『Haut-de-Cagne(オー・ド・カーニュ)』と呼ぶ。
上(かみ)カーニュとでも言いましょうか。
その、海辺のカーニュにの背後の斜面に『ルノワール』が晩年住み着いた。
ちなみに、彼はリモージュ生まれながら、気っ風は「パリジャン」であります。
印象派の、光の変化だの色彩だのという表現では、自分の描きたい人間の、特に女性の肉体の美しさは表せない事に気がつき、印象主義から離れて独自の画風を切り開いて行った。
最後の言葉。
『オレは、世の中の女達の<ケツ>が無かったら、画家なんぞになろうなんて思やぁしなかったぜ』
その都会人のルノワールも視力の低下には勝てず、妻の実家の村での自転車からの転倒が、ルノワールに体力の低下を招き、さらにリュウマチの辛さにも勝てず、光と温暖な気候を求めて地中海岸に、最後の土地を求めた。
最後の妻『アリーン』と、新たに授かった三人の息子達「ピエール」「ジャン」「クロード」と共に、1903年『カーニュ』に落ち着くこととなる。
そして4年後、1907年6月に町の後背地の丘に立つ『コレット』と名付けられていた一軒家を購入した。
『コレット邸』
きっかけは、遥かに見晴らす地中海の煌めきと、広々とした敷地に散在する、数百年の樹齢を誇る「オリーブ」の樹々とオレンジの樹々であった。
敷地のオリーブの木
自身が描いた「コレット邸」
そこに彼は1年後に、ネオ・プロヴァンス様式で館を建て増し、そこにアトリエを二部屋確保して、更なる製作に励む事となる。
建て増しした「ネオ・プロヴァンス様式」のアトリエ
ルノワールは、この終の住処に「アンリ・マティス」「アリスティッド・マイヨール」「アメデオ・モディリアーニ」「オーギュスト・ロダン」「パブロ・ピカソ」「クロード・モネ」・・・など、多くの旧知の友や、ルノワールを慕って来た新たな友を招いて、友情を温めた。
このアトリエで、彼は没するまでの11年間を過ごし、妻と子供達を題材に、絵画と彫刻とに励んだ。
1919年12月3日永眠。
その後も、この館には末の息子「クロード」が、自ら没するまで住み続けた。
1960年、クロードの他界によりこの屋敷をカーニュが購入し、『ルノワール記念館』として、今日に至って居る。
ただ本年2013年は、大改修で閉鎖中。
内部の展示品は、総て『オー・ド・カーニュ』村の『グリマルディー城』に移されて、公開されている。
『カーニュ・シュー・メール』からやや西に一谷離れた丘の頂きが『オー・ド・カーニュ』である。
狭い道を登って行くと、ギリギリ車が入れなくなる地点で駐車ゾーンに車を残して、丸石の石畳の小径や階段を上った突き当たりが、オー・ド・カーニュ村の城が聳える。
この村は、「海に沿ってNo.3」でご紹介した『モナコ大公』の領土であった。
第二次大戦の際の「対独協力」を咎められて、フランス国内に相当広範囲に存在した領地を総て奪われて、フランス領になってしまった。
従って、この城は今でも昔ながらに『グリマルディー城』と呼ばれる。
『グリマルディー城』の天守
城を取り巻く周辺は、情緒溢れる家並が残り、時計が数百年逆戻りした様な気分を味わえる。
城内は、通常「オリーブオイル」に関する様々な資料を展示した、博物館である。
城の入り口のアーケードの下には、古い井戸が残っている。
古井戸
城の中庭は、見事な回廊が取り囲む。
丸っきり「イタリア・ルネッサンス」な中庭の回廊
パティオの小さな噴水
衛兵の控えの間の暖炉
石のタイル貼りの床
城に伝わる古の大公の剣と砲丸
グリマルディー大公家の家系図
グリマルディー家の「市松模様」の鎖帷子胸当てを着用した『レーニエ1世』
城内の一階部分に、本来の「オリーブ・オイル」の資料の展示。
オリーブの実を潰す挽き臼
潰したオリーブの実を圧搾して絞る圧搾機
石臼
石臼
油を入れる瓶
プレス機の腕を押し下げる縦のネジを受ける部分
樽職人は、木組みと寄せ木の技術で、手箱その他の小物の良く造っていた。
この地中海世界では、木工細工には当然「オリーブの木」が使われていた。
寄せ木細工の小箱その他
オリーブ・オイルは古来より地中海世界の文明と共に有り、食用、保存用、化粧品、そして明かりに欠かせないものであった。
古代ローマの素焼きのオイル・ランプ
油差し
油差し各種
挽き臼から油を集める部分
臼で挽いて砕いたオリーブの実を麻の座布団の様な敷物の上に拡げ、その上にまた「座布団」を敷いてオリーブの実を拡げ、更に何層にも重ねて圧搾機にかけて絞る。
挽いた実を拡げる麻の「座布団」
城の2階と3階に、『コレット邸』の所蔵品が展示されていた。
広間の天井
暖炉
コレット邸のテーブル
上のテーブルの部屋の暖炉の上に置かれたルノワール作の彫刻
ピアノを弾く娘達に描かれたピアノ
ルノワール愛用の杖
ルノワールのマント
妻アリーヌの帽子と小品の数々
カーニヴァルの衣装の末の息子『クロード』の衣装
この他にも、数々のルノワールと息子達のゆかりの品々が、残されている。
更に、『コレット邸ルノワール記念館』の収集品である作品も、興味深い。
『キップリング』の静物画
『藤田嗣治』の少女像
極めつけは、『エコール・ド・パリ』の画家達の、最も愛したモデル『シュジー・ソリドール』を、エコール・ド・パリの画家達が描いた肖像画の一挙展示である。
『シュジー・コリドール』のポートレート
『ヴァン・ドンゲン』作
『キスリング』作
『藤田嗣治』作
『マリー・ローランサン』作
一部屋の、四面の壁全部に「シュジー」の肖像画が飾られている。
多くの画家の手で描かれている、その画家の数の多さと知名度の高さから、このモデル嬢の人気が如何に高かったかを、忍ばせる。
数々の「シュジー」の肖像画
「シュジー」のドレスとポートレート
この「グリマルディー城」の屋上に上ると、周囲を見晴らせて、背後の雪山と前面の地中海と両方を一望に出来て、絶景である。
上の写真の、糸の様に細く見える手前の岬が『カップ・ダンティーブ』、その向こうの大きな岬の向こう側に『カンヌ』の湾がある。
ちなみに、今年は修復工事で閉館中の『ルノワール記念館コレット邸』の内部を、ほんの一部だけ古い写真でご紹介しよう。
長く続き過ぎた感も有る「コート・ダジュール」ですが、あと一回か二回続けてみようと思っています。
『オー・ド・カーニュ村』
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、それまでの「アカデミスム」一辺倒であった芸術の世界で、日常の中の光景を描くが形が現れた。
何らかの「哲学的テーマ」が必要で、人間の尊厳やら、人間の存在の崇高な価値やらを、古代のローマの名高い逸話に絡めて表現し、「この様な事を感じ取らなければならない」と大上段に構えて押し付けていた「画壇」のやり方に戸惑いを覚え、生活苦から都会を離れて郊外に住む様になり「自然」と「庶民の生活」の中に身を置いて製作を始めるに及んで産まれて来た『リアリスム(自然主義)』である。
それまで、一般市民に至るまで誰も「好奇心」を持たなかった、「小作人の日常」などを取り上げる様になった。
更にそこから、何らかの「主題」の背景に過ぎなかった「風景」自体を描き始めて、『風景画』と言うジャンルが確立して行く。
さらにその中から、屋外での製作が始まり、時間の経過で太陽の角度と光の強さが変わって行くに連れて、描いていた対象の色彩が変化する事に気がつく画家達が現れる。
それが『印象派』と呼ばれる一群の表現者達である。
明るいか暗いか、であって色彩には無関係だと思っていた「光」が、今の瞬間に与えている効果が、今目に移る「色彩」である、と言う事に気がついた。
印象主義者達に取っては、それまでの様に「何を描いてあるか」ではなく、描く事は「今の光が与える効果を表す対象」である、という感覚上のコペルニクス的大転換であった。
ヨーロッパの中でも、特に中央集権の強いフランスは、政治経済のみならず、学問も分化も芸術も、総てパリ及び周辺で生まれ動く。
そのパリに集まって修行した画学生達が、物価高で生活苦が酷くなり、パリを出て周辺に移りながら「田舎」の生活にふれ、そこから「日常生活」を題材にする製作に傾向が変わり始めて、上記したリアリスムが誕生して行った。
理解され無いから精神的に苦しみ、売れないから物質的に苦しみ、しかし彼等の活動が芸術を「学問」の高みから「日常」の位置へと下ろして行って、現代絵画を生んで行ったのだ。
そういう彼等も、齢を重ねるにつれて理解され認知されて、多少は安定して行くなかで、体力や視力の低下に悩んだ者達も多かった。
白内障に苦しみ、パリ首都圏の「光の乏しさ」から、より明るい光溢れる土地を目指し、首都圏の物価の高さから逃げ出す事と相まって、人生を終盤を『コート・ダジュール』で終わった画家が、何人も居る。
印象派から発展し、後期印象派、点描派、野獣派など、20世紀絵画に移行すると、増々「色彩」の多様性が表現に大きな位置を占める様になって行く。
そして、正しく『コート・ダジュール』こそが「光」と「色彩」との楽園であったのです。
プロヴァンスの村々は、四季の花々に被われて、底抜けに青い空と紺碧の海が有った。
『カーニュ・シュー・メール』村の一隅
ピエール・オーギュスト・ルノワールも、そんな一人だった。
ニースから西へほんの数キロで『カーニュ』とう小さな町がある。
海岸から背後の起伏にかけて広がる町で、海沿いの低地の部分を『Cagne-sur-Mer(カーニュ・シュー・メール)』と呼ぶ。
海岸のカーニュ。
高みを『Haut-de-Cagne(オー・ド・カーニュ)』と呼ぶ。
上(かみ)カーニュとでも言いましょうか。
その、海辺のカーニュにの背後の斜面に『ルノワール』が晩年住み着いた。
ちなみに、彼はリモージュ生まれながら、気っ風は「パリジャン」であります。
印象派の、光の変化だの色彩だのという表現では、自分の描きたい人間の、特に女性の肉体の美しさは表せない事に気がつき、印象主義から離れて独自の画風を切り開いて行った。
最後の言葉。
『オレは、世の中の女達の<ケツ>が無かったら、画家なんぞになろうなんて思やぁしなかったぜ』
その都会人のルノワールも視力の低下には勝てず、妻の実家の村での自転車からの転倒が、ルノワールに体力の低下を招き、さらにリュウマチの辛さにも勝てず、光と温暖な気候を求めて地中海岸に、最後の土地を求めた。
最後の妻『アリーン』と、新たに授かった三人の息子達「ピエール」「ジャン」「クロード」と共に、1903年『カーニュ』に落ち着くこととなる。
そして4年後、1907年6月に町の後背地の丘に立つ『コレット』と名付けられていた一軒家を購入した。
『コレット邸』
きっかけは、遥かに見晴らす地中海の煌めきと、広々とした敷地に散在する、数百年の樹齢を誇る「オリーブ」の樹々とオレンジの樹々であった。
敷地のオリーブの木
自身が描いた「コレット邸」
そこに彼は1年後に、ネオ・プロヴァンス様式で館を建て増し、そこにアトリエを二部屋確保して、更なる製作に励む事となる。
建て増しした「ネオ・プロヴァンス様式」のアトリエ
ルノワールは、この終の住処に「アンリ・マティス」「アリスティッド・マイヨール」「アメデオ・モディリアーニ」「オーギュスト・ロダン」「パブロ・ピカソ」「クロード・モネ」・・・など、多くの旧知の友や、ルノワールを慕って来た新たな友を招いて、友情を温めた。
このアトリエで、彼は没するまでの11年間を過ごし、妻と子供達を題材に、絵画と彫刻とに励んだ。
1919年12月3日永眠。
その後も、この館には末の息子「クロード」が、自ら没するまで住み続けた。
1960年、クロードの他界によりこの屋敷をカーニュが購入し、『ルノワール記念館』として、今日に至って居る。
ただ本年2013年は、大改修で閉鎖中。
内部の展示品は、総て『オー・ド・カーニュ』村の『グリマルディー城』に移されて、公開されている。
『カーニュ・シュー・メール』からやや西に一谷離れた丘の頂きが『オー・ド・カーニュ』である。
狭い道を登って行くと、ギリギリ車が入れなくなる地点で駐車ゾーンに車を残して、丸石の石畳の小径や階段を上った突き当たりが、オー・ド・カーニュ村の城が聳える。
この村は、「海に沿ってNo.3」でご紹介した『モナコ大公』の領土であった。
第二次大戦の際の「対独協力」を咎められて、フランス国内に相当広範囲に存在した領地を総て奪われて、フランス領になってしまった。
従って、この城は今でも昔ながらに『グリマルディー城』と呼ばれる。
『グリマルディー城』の天守
城を取り巻く周辺は、情緒溢れる家並が残り、時計が数百年逆戻りした様な気分を味わえる。
城内は、通常「オリーブオイル」に関する様々な資料を展示した、博物館である。
城の入り口のアーケードの下には、古い井戸が残っている。
古井戸
城の中庭は、見事な回廊が取り囲む。
丸っきり「イタリア・ルネッサンス」な中庭の回廊
パティオの小さな噴水
衛兵の控えの間の暖炉
石のタイル貼りの床
城に伝わる古の大公の剣と砲丸
グリマルディー大公家の家系図
グリマルディー家の「市松模様」の鎖帷子胸当てを着用した『レーニエ1世』
城内の一階部分に、本来の「オリーブ・オイル」の資料の展示。
オリーブの実を潰す挽き臼
潰したオリーブの実を圧搾して絞る圧搾機
石臼
石臼
油を入れる瓶
プレス機の腕を押し下げる縦のネジを受ける部分
樽職人は、木組みと寄せ木の技術で、手箱その他の小物の良く造っていた。
この地中海世界では、木工細工には当然「オリーブの木」が使われていた。
寄せ木細工の小箱その他
オリーブ・オイルは古来より地中海世界の文明と共に有り、食用、保存用、化粧品、そして明かりに欠かせないものであった。
古代ローマの素焼きのオイル・ランプ
油差し
油差し各種
挽き臼から油を集める部分
臼で挽いて砕いたオリーブの実を麻の座布団の様な敷物の上に拡げ、その上にまた「座布団」を敷いてオリーブの実を拡げ、更に何層にも重ねて圧搾機にかけて絞る。
挽いた実を拡げる麻の「座布団」
城の2階と3階に、『コレット邸』の所蔵品が展示されていた。
広間の天井
暖炉
コレット邸のテーブル
上のテーブルの部屋の暖炉の上に置かれたルノワール作の彫刻
ピアノを弾く娘達に描かれたピアノ
ルノワール愛用の杖
ルノワールのマント
妻アリーヌの帽子と小品の数々
カーニヴァルの衣装の末の息子『クロード』の衣装
この他にも、数々のルノワールと息子達のゆかりの品々が、残されている。
更に、『コレット邸ルノワール記念館』の収集品である作品も、興味深い。
『キップリング』の静物画
『藤田嗣治』の少女像
極めつけは、『エコール・ド・パリ』の画家達の、最も愛したモデル『シュジー・ソリドール』を、エコール・ド・パリの画家達が描いた肖像画の一挙展示である。
『シュジー・コリドール』のポートレート
『ヴァン・ドンゲン』作
『キスリング』作
『藤田嗣治』作
『マリー・ローランサン』作
一部屋の、四面の壁全部に「シュジー」の肖像画が飾られている。
多くの画家の手で描かれている、その画家の数の多さと知名度の高さから、このモデル嬢の人気が如何に高かったかを、忍ばせる。
数々の「シュジー」の肖像画
「シュジー」のドレスとポートレート
この「グリマルディー城」の屋上に上ると、周囲を見晴らせて、背後の雪山と前面の地中海と両方を一望に出来て、絶景である。
上の写真の、糸の様に細く見える手前の岬が『カップ・ダンティーブ』、その向こうの大きな岬の向こう側に『カンヌ』の湾がある。
ちなみに、今年は修復工事で閉館中の『ルノワール記念館コレット邸』の内部を、ほんの一部だけ古い写真でご紹介しよう。
長く続き過ぎた感も有る「コート・ダジュール」ですが、あと一回か二回続けてみようと思っています。
正にフォトの旅でした。
ルノアールが住んでいたのですね。階段の上にあるアンティークのお店、覗いてみたいです。ダルタニャンが出て来そうなお城、光が素敵なパティオ、そして、チャールストンでも踊るような、ドレス。時代が、何とも良いですね。
多くの画家が愛したコート・ダジュール、今週もありがとうございました。次回も楽しみに致しております。
明るいか暗いか、であって色彩には無関係だと思っていた「光」が、今の瞬間に与えている効果が、今目に移る「色彩」である、と言う事に気がついた。
印象主義者達に取っては、それまでの様に「何を描いてあるか」ではなく、描く事は「今の光が与える効果を表す対象」である、という感覚上のコペルニクス的大転換であった。
-引用、終わり-
すてきな言説でした。
燦々と降り注ぎ、煌めく、コートダジュールの光。全く経験がないけれども、光を通して、様々な色を存分に味わえることの至福。光を堪能すればするほど、毒を食らうことになる、我が古里。我が眼からただ涙が溢れ出るばかり。
すてきな写真、ありがとう。
『チャールストン」!
時代的には少し前でしょうが、まさにそんな感じですね。
そもそもアンティーク屋さんって、入るのに躊躇しがちですが、田舎の小さなアンティーク屋さんは、興味を引かれますよね。
光にも、生かす光と殺す光がある…。
悲しい現実です。
本来の、光り輝く世界で色彩溢れた世界で、楽しく生きて行きたいですよね。
これからでも、取り返せるものなら取り返しておかなければ…。
いずれにせよ、与えられた条件で生きて行くしかない。
コート・ダジュールを始めたら、終わらなくなってしまって(汗)
早急に別のテーマにしなければとも、思って居ります。
どんなテーマでも、応援して下さい。