晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

「カレーの市民」にみる、自己犠牲の葛藤と決断の覚悟を、感じ取れれば…明日は来る【日曜フォトの旅】

2012-03-18 23:52:07 | 歴史と文化
百年戦争。


イングランド王家は、1066年の「ノルマンディー公ギヨーム」による、統一王朝の成立で始まった。


日本では『英仏百年戦争』と呼ばれる戦いの起源は、ここに或る。

今の「イギリス」は、「イングランド王国」「スコットランド王国」「ウエールズ大公国」の集合である『グレート・ブリテン』と、『アイルランド王国』との<連合王国>の事である。


現代まで続くイギリス王家の最初の起源は、土豪国七王国時代のイングランド地方の主要国「イングランド」王位をフランスのノルマンディー公ギヨームが相続し、それに反対した先代イングランド王の義理の弟ハロルドによる王位簒奪を討って征服し、「イングランド王」として即位、さらにイングランド地方の残り6各国を征服した事によって興る『ノルマン征服王朝イングランド王家』が起源である。

ノルマンディー公ギヨーム改め、ノルマン征服王朝『イングランド王ウイリアム1世』となる。

その時点で、フランスの封建諸公領であった「ノルマンディー」が、イングランド王家の領土となってしまった。

その頃、相前後して、西隣の『ブルターニュ公爵家』の内紛に乗じて『ブルターニュ』を併合していた。

征服王朝は三代目で男子が居なくなるが、三人目の王の娘『マチルダ』が、フランスの有力大貴族『アンジュー伯ジョフロワ』に嫁ぐ。

アンジュー伯爵家は、歴代フランス王に娘を多数嫁がせた、王家の外戚であり、さしずめ「藤原家」か「曽我一門」か、と言うべき名家であった。

フランス中央部を南北に分けて西へ流れる「ロワール河」下流域の大領主であった。

首都はアンジェ。


     
     アンジェ城の城壁



その間に出来た男子『アンリ』が、同ノルマン征服王朝の親戚であったブロワ伯との20年に及ぶ継承戦争の後、イングランド王となって、「ノルマンディー家」が出したイングランド王家に、「アンジュー家」の血を半分入れた新たなフランス系イングランド王朝が成立する。

『プランタジュネット王朝』の成立である。


つまり、フランス有数の大貴族の領地「アンジュー」が、イングランド王家の領土となった。

その、プランタジュネット初代国王『ヘンリー2世』に嫁ぐのが、時のフランス国王『ルイ7世』の妃であった『アエレノール・ダキテーヌ』である。

彼女は、当時フランス最大の勢力であった「アキテーヌ侯」の一人娘であった。

従って、女性ながら、フランス南西部ピレネーまで続く大諸公の領地『アキテーヌ』を継承していた。

ポワトー、サントンジュ、ケルシー、アルマニャック等等の爵位を包含する。

そこも、イングランド王家の所有物になってしまう。


     
     ポワトーの首都ポワティエの城


     
     ポワティエにあるロマネスクの名刹「ノートル・ダム・ラ・グランド」



そこで、13世紀半ばにイングランド王家は、フランス国内の実に40%程にも及ぶ領地を所有していた。

ちなみに、この「ヘンリー2世」と「アエレノール」との間に出来るのが、『小ヘンリー』『リチャード獅子心王』『ジョン欠地王』など等である。


     
     ロワール河流域フォントヴロー王立大修道院の「アエレノール」の墓


     
     同「リチャード獅子心王」の墓


1066年「ヘイスティングスの戦い」で、ノルマンディー公ギヨームがイングランド王になった時点から、フランス王とイングランド王との領土争いの戦いが始まった。

とぎれとぎれに、四百年強続く事になる。

その、最後の百年強は、単なる両王の領土争いという「私的財産争い」の戦いから、フランスの王位が絡む事で意味合いが「主権争い」となった。

その部分を『百年戦争』と呼ぶ。


開始早々、イングランド王のエドワード3世は、クレシーの戦いで勝利を収める。

その後、1347年、英仏海岸の港町「カレー」を包囲。
フランスのフィリップ6世は、なんとしても持ちこたえるように町に指令した。

しかしフィリップ王は包囲を解くことができず、カレーを解放出来ない。

飢餓のため町は降伏交渉を余儀なくされる。

エドワード王は、町の主要メンバー6人が自分の元へ出頭すれば町の人々は救うと持ちかけたが、それは6人の処刑を意味していた。

エドワード王は6人が、半裸に近い格好で首に縄を巻き、城門の鍵を持って歩いてくるよう要求したのである。


町の裕福な指導者のうちの一人、ウスタシュ・ド・サン・ピエール(Eustache de Saint Pierre)が最初に志願。

すぐに5人の市民が後に続く。

ジャン・デール(Jean d'Aire)
ジャック・ド・ヴィッサン(Jacques de Wissant)
ピエール・ド・ヴィッサン(Pierre de Wissant)
ジャン・ド・フィエンヌ(Jean de Fiennes)
アンドリュー・ダンドル(Andrieu d'Andres)

合計六名の「志願者」は揃った…。



パリに有って、名前が知られ始めていた新進彫刻家『ロダン』は、この時の『六名の勇者』の像を制作する。

1880年、カレー市長により町の広場への設置が提案され、ロダンに発注された。


サン・ピエールを先頭に、町の城門へと歩いたやせ衰えた6人。

まさにこの、敗北、英雄的自己犠牲、死に直面した恐怖の交錯する瞬間をロダンは捉え、強調し、迫力ある群像を作り出したのである。

完成は1888年。



     
     「カレーの市民」


この群像は、カレー市庁舎の前に置かれている。


時あたかも、『普仏戦争』の敗北直後と有って、フランス全土が破壊的被害を受けており、国民全体が意気消沈しているときであった。

フェランス全土で、国民の心に希望の火をともす為に、愛国心を再度かき起たせる為に、各種の記念物が作られた。

パリ、モンマルトルの丘の『サクレ・クール聖堂』
リヨン、フールビエールの丘の『ノートル・ダム・ド・フールビエール聖堂』
マルセイユ、カンヌビエールの丘の『ノートル・ダム・ラ・グラース聖堂』


カレーの町に於いても、祖国の名誉の為に犠牲となった多くの若者達が居た。

それら若者達の犠牲を、顕彰することが切望されていたのだ。


しかるに、ロダンのこの作品は、市民を英雄的表現ではなく、むしろ陰気で疲れきった姿として描き出した。

当然スキャンダルを巻き起こしたのだった。

当時、ロダンとしてはこの作品を「地面の高さに」据える様に希望していた。

鑑賞する「市民達」が、主人公達の心の動きを<同じ目線>で感じ取れる様に。

しかしロダンの死後、市当局は旧来の「芸術作品」としての「記念碑」の扱いで、高い台の上の据えた。

設置は1895年。

ロダンの求めた<鑑賞者と同じ地面の高さに展示することと>という求めに戻されたのは、1925年になってからの事である。


     
     美しい花壇に囲まれた、恐怖と苦悩と英雄心との葛藤の群像


     
     志願した若者の、心の中を見事に映し出したディテール


     
     達観と諦めとの混じり合った初老の志願者


全体像から感じ取れる、丸一年の包囲を通しての「疲労感」や「飢餓感」が醸し出す、言いようの無い辛く重苦しい雰囲気が強い圧力となって、鑑賞する者に届いて来る。

具体的に、細かく表情や姿勢を観察すると、極限状態に置かれた人間の持つ「緊張」と、高貴な決意の発露からなる「気高さ」を感じる。

更に見つめると、その奥から「心の揺らぎ」や「後悔」、さらに「諦め」や「虚無」など、様々な感情が放射されて、私たちの心を射抜く。

言葉が出てこなくなる。




この作品は、オリジナルの粘土像から型を取って、ロダンの死後12組作成された。

勿論、ここカレーの市庁舎前に飾られているのは、第一番のナンバーが与えられている物である。

後の作品は、世界各国に分散し、オリジナル通りの群像で於かれているケースもあるが、多くの場合、一体ずつ離して展示されている事が、少なく無い。



日本は、まさに未曾有の災害に打ちのめされている。

国民の一人一人が、祖国の将来の為に、自分が出来る事を尽くして努力しなければならない局面に、追い込まれていると言って、過言では無いのでは無いか。


政治には期待出来ない。

行政も、市民の見方とは思えない。

財界も、マスコミも、一般市民を食い物にして、自分達だけ生き延びる算段を考えている様に見える。


このような社会を造り上げてしまった後悔。

自分達が、自分達を守らない社会を造り上げて来た事に気がついた、苦く悔しい思いに直接向かい合わされている。


前に出よう。

疲れと、いら立ちと、後悔と、怒りと、家族や同胞への愛情のないまぜになった、命の叫びを上げ続けなければならないのだと思う。

夫々が、夫々の大切な社会の為に、自らを差し出さなければならない。

苦しみや、哀しみや、怖さや、恐ろしさや、そんな負の感情を、隠す必要は無い。

自分達の心の感じるままに、声を上げよう。
進み出よう。

カレーの市民の「自己犠牲」の様に英雄的行為でなくとも、一人一人の覚醒が「日本を変える」事が出来る力となる事を、信じよう。



必ず、夜は明ける。




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2 コメント

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この国を変えられるのでしょうか・・・ (Himbeere)
2012-03-20 07:33:29
パリさま、

今回の写真ブログは、私たちに「カレーの市民」を見せる為に、誘って下さったのですね。勇気を与えるために・・・。この様な像がある事、存じませんでした。

日本は本当に駄目になってしまったのでしょうか・・・。それとも、勇気を持って立ち上がるのでしょうか。或いは、もう惰性で、どうにも成らない、と思うだけでしょうか・・・。小沢氏の判決がもし無罪になるとしたら、変わる事が出来るかもしれません。大きなチャンスを無にするのか・・・。目の前に出されている1本の真っ直ぐな道を、捻じ曲げるのか、裁判長の心一つです。お天道様を信じる事に致しましょう。

「ポワティエの城」素敵ですね!
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Himbeereさま。 (時々パリ)
2012-03-21 22:09:49
コメントありがとうございました。
「お天道様はみている」は、カトリックの『最後の審判』に通じますよね。
「そうでも信じていないと生きて行けない」という…。
でも、諦めたらおしまい。
抵抗すれば、もしかしたら変革の可能性はある、と言う事もロトと一緒。
当たる確立は何億分の一でも、当たる可能性は或る。
買わなければ、当たる可能性はゼロ。
この差は、無限大です!
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