晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

裁判官といい、霞ヶ関官僚といい、日本の「エリート」とは、実は愚か者の集団だったのか?

2011-06-27 23:56:55 | 政治と社会
ずっと以前から、「裁判官」と言う人種は、誰の為に「正義」を実行しているのだろう、と不思議で仕方がなかった。


具体的事例を、羅列する程の資料は持ち合わせていないが、若い頃からの変わらぬ思いである。


特に、お上と下々との対決の場合は、まずお上に有利な判決がでる。
「社会的弱者」に、顔を向けているとは到底思えない判決が、普通に出される事が実に多い気がしている。


▶国がじん肺認定の患者、地裁支部認めず 山口の賠償訴訟(朝日見出し)

>三菱重工業下関造船所(山口県下関市)で働いていた下請けや孫請けの元従業員と遺族計4人が、三菱重工業が安全配慮義務を怠ったためじん肺になったとして、計約1億4千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が27日、山口地裁下関支部であった。

>元従業員はいずれも国にじん肺と認定されていたが、曳野久男裁判長は「じん肺と認定するには足りない」として請求を棄却した。

>原告弁護団によると、国の基準でじん肺と認められた人が、裁判で「じん肺と認められない」と判断されるのは極めて異例。
【朝日新聞/6月28日1時44分配信】


例えばこのような。

どう考えても、一介の従業員の、大企業に対する弱い立場を考慮せず、あくまで「大企業の側」にたった視点で、判断している様に見える。

この種の例は、枚挙にいとまが無い。



▶諫早の開門、長崎地裁認めず 高裁判決とねじれ(朝日見出し)

>国営諫早湾干拓事業(長崎県)をめぐり、諫早湾内や付近の漁業者41人が国に潮受け堤防排水門の開門などを求めた「長崎訴訟」で、長崎地裁は27日、開門請求を棄却する判決を言い渡した。

>須田啓之裁判長は「開門せず、調整池内を塩水化しないことが、原告らに対する違法な侵害行為とは認められない」と述べた。

>長崎訴訟の原告は、堤防の近くで漁業を営む小長井町漁協(同県諫早市)の組合員9人と、湾近くの佐賀県有明海漁協大浦支所(佐賀県太良町)の32人。

>菅直人首相は開門を命じた昨年12月の福岡高裁判決(一審・佐賀地裁=佐賀訴訟)を受け入れる政治判断で上告を断念したため、国は今後も開門の義務を負う。

>開門とは逆の判決が示されたことで開門準備の迷走は避けられなくなった。
【朝日新聞/6月27日21時29分】


この、諫早湾干拓事業の無意味さは、ここでは繰り返さない。

しかし、誰がどう考えてみても、自然の生態系を破壊して、今の時代に干拓農地を開発しなければならない合理的理由は、何処にも見いだせない。

「お上が始めた事」は、たとえ意味が無かろうが、国民に被害を与える事になろうが、決して撤回しない。

「その場で止める」勇気はなく、先送りして子孫に付けを廻して平気で居る。

そして。
「自然の豊かさ」より、「目先の経済効果」が優先される。

と言うより、自分達の周囲に有る自然という、かけがえの無い宝物の価値が、全く理解出来ない人種が、裁判官であり、官僚なのでは無いのだろうか。

到底「先進国」とは言えない、価値基準である。


農水省側の良い分は、長年にわたっての事業見直しで、コロコロと変わって来た。

治水。
氾濫予防。
農地の開発の必要性。

そして最後には。

入植農家は、既に数年に渡って農業を営んでいる。
今さら彼等に立ち退きを求める事は出来ない。

入植農家の言い分。
「国の政策に従って開墾して来て、今更水門開けたら、総てがダメになる。そんな無責任な事が有るか」

しかし、論点がずれている。

それを言うなら、先祖代々の漁業権を奪われた漁民の方は、どうなるのだ。
タカだか、お涙程度の和解金で、なれ親しんで来た生活基盤を奪った挙げ句に、自然の生態系が大きく変化してしまった、そっちの被害の方がずっと大きいのでは無いか。

入植農家は、開門して「諫早湾」を旧に復する事は受け入れ、農水省=国に損害賠償を求めれば良いだけの話では無いか。

精々数年の事業から撤退と、先祖代々の生業の喪失とは、重さが違う。
非難する対象が、間違っている。


それより、やっと「開門」を命じた、有る意味で日本の司法史上画期的とも思える「先進的判決」を高裁が出した後で、一体何故地裁判事が、それとは真逆の判決を出すのか、と言う事である。

おそらく、この判決を出した判事に取っては、手持ちの判例から判断すれば、それが正しい判断で有ったのだろう。

「法律に照らして」言えば正しい判断、が必ずしも現実生活の上で「正しい」tとは限らない。
しかし、裁判官に取っては「法律に照らし絵」判断するのが責務である。

ただ、「法律」は神では無く、「判断」次第で、どうにでもなる。
その典型が、この様な無味乾燥で、命を感じさせない判決を生む。

何故なら、裁判官は「ロボット」と同じ判断しかしないからだ。


この二例は、氷山の一角であるが、「お白州」が弱気を助ける姿勢に欠けている、と見なさざるを得ない端的な例である。


その他、こんな例もでて来た。


▶コメ先物取引:試験上場 農相が認可の方針(毎日見出し)

>東京穀物商品取引所と関西商品取引所が認可を申請していたコメ先物取引の試験上場について、鹿野道彦農相は24日の閣議後会見で「認可しない考え方に立つのは難しい」と述べ、事実上認める方針を表明した。早ければ来週中にも認可する。コメ先物の復活は72年ぶりとなる。

>先物は将来の価格をあらかじめ決めて売買する取引。米シカゴ市場の農産物先物は世界の指標価格とされ、国内の取引所でもトウモロコシや大豆などの先物が上場されている。作柄変動などのリスクを軽減できるため、生産者や実需者側にメリットがある半面、利ざや稼ぎを狙った投機資金が流入して価格変動が増幅される面もある。

>コメ先物の認可には、客観的な指標価格の形成を促す狙いがある。

>一方、全国農業協同組合中央会(全中)などが懸念するように、投機主導で価格が乱高下すれば、作付けをめぐる農家の判断が混乱する可能性もあり、極端な価格変動に歯止めをかける値幅制限を設けるなど慎重な制度設計が求められる。また、相場に影響を与える政府備蓄米の買い上げや放出も客観的な基準を使い運用される必要がありそうだ。
【毎日新聞/6月25日 0時54分】


どう考えても、生産者にも、消費者にも、何処にもメリットはない様に思える。

アメリカでの「トウモロコシ」や「大豆」の先物上場と、日本の「コメ」とを同列に並べて論じて、何か意味が有るのか。

一度「凶作」が見通されるや、国際的「禿鷹ファンド」が、情け容赦なく買い付けに走って、価格を高騰させるに違いない。

中東紛争時の、石油取引を見てみるが良い。

国際ファンドは、庶民の味方では決してないのだ。
生活必需品である程、投棄の対象になりやすく、国際価格を操作されやすい。

儲けるチャンスは、決して逃さず、情け容赦なく投機の対象にして、利益をしゃぶり尽くす。
「食料自給率」の向上には、全く相反するシステムであろうと思える。


農水省は、一体誰の為にこのような認可をする決定に至ったのだろうか。

勿論、想像に難くはないが。


一事が万事である。

目下の急務である原発事故の処理にしても、「保安院」なるお役所は、誰の為に働いているのだろうか。

勿論、想像に難く無いが。



遥か昔、『司法試験』を受ける為に頑張っている友人が居た。

父親は、かなり「立派な」裁判官だったらしい。
その友人は、既に10回受験して、失敗を繰り返していた。

年間合格者が、確か250名程度であった時代の事である。

彼は、『六法全書』の総てと、関連法規、及び戦前戦後の判例を、ほとんど諳んじていた。

東京大学の、司法試験受験者達の勉強会に、講師として招かれているくらいだった。

しかし、実戦に弱いと言うのか、教えた後輩達が次々と合格して行くのに、彼だけは毎年不合格であった。


驚かされたのは、戦前戦後の総ての法律と、その判例とが、総て頭の中に収まっていた、彼等の記憶力である。

裁判官と言う人種は、つまりはそう言う人種なのだ。

担当する事件を、適応すべき法律に当てはめて、過去の総ての判例に比べて、判断をするのだ。

つまり、コンピューターと同じである。

データーで判断する。


ところが、現実問題は、適切に当てはまる法律がない事も多いのではないか、と思える。
比べるべき前例がない事も、多々有るのではなかろうか。


判決を導き出す、その根拠は、あくまで現存する法律と、過去の判例である。

たとえ、的確に比較出来ない様な事例であっても、与えられた条件で判断するしか無い。

そうすると、「弱気をくじき、強きを助ける」様な判断になってしまう事も大いに有るであろう。
枝葉には目をつぶって、幹だけで判断する。

そのような判決を紡ぎ出す「裁判官」は、彼自身には、その経過と、結果に、いささかの恥じるべき事等無いに違いない。


法律は、あくまで指標に過ぎない。
判断は、ここの事例の具体的特殊性に鑑みて、柔軟に対応して運用する。

そのような思考のメカニスムは、残念ながら日本の司法の場では期待出来ない。

つまり、「鳥居耀蔵」は数多く居ても、『大岡越前守』は、現実には居ない、と言う事なのだ。


この判断は、官僚総てに当てはまる。

総ては、前例に従って判断する。
前例に無い判断をすると、自分に責任がかかって来るから。

そんな事は、官僚はやらない。

つまり、「自分が前例を作る」という気概や、先取の気概は無い。


何もかも、「やら無い事」に全神経を集中する。
先例は造らない。

対処出来ないからだ。


それが、「偏差値教育」の最も大きい欠陥である。

マルバツで、正答を如何に早く、多く導き出すか、の能力。
正しく、前例と判例の判断基準そのものである。

その基準では、優劣はつけやすい。
しかし、本当の人材は育たない。

従って、「エリート意識」だけが鼻先にぶら下がった、傍若無人なマヌ◯が輩出する事になるのである。


ところが、時に彼等は今までに無かった事を、いきなりやってしまう事が有る。

卑近な例が、上記「コメの先物」取引の認可であったり。
放射能の被曝安全基準の「世界の常識」に反する大幅引き上げ、であったり。

突如決める「コンピューター監視法」であったり。
(国会で決めた事とは言え、先ず官僚が法案を準備する事を、忘れてはならない)

この様に、突如前例のなかった方向を打ち出すときは、当然背後に「庶民の与り知らぬ」理由が潜んでいるものだ。

そして、挙げ句の果てに「国民無視」の、誰の為の法律か理解出来ない様な事を、平気でやってのけるのです。


ただ一つの「正解」が隠されている問題を解く技術、偏差値、でのし上がって来た日本型エリート集団は、実際に何が正解なのか不明の現実で、あらゆる考察を経て、最も「正解に近い」選択をすると言う柔軟性有る判断力は無い。

先例に従う。
それは、往々にして「下々には過酷な」判断となる事が多い。

または、先例のない事をやる。
その際は、背後に潜む、より大きな力に動かされての事である。

その場合も、「下々には非常にに不利な」判断となる。


裁判官も官僚である。

そして、世界中で「民主国家」と言われる国々の中では、日本の官僚のレベルは、相当に低いと思われてならない。

何故なら、国に奉仕しているのではなく、「自分達の前例」に奉仕しているダケだから。


そして、彼等のその行動パターンが、国民の血税を無駄遣いし、自分達の組織に尽くす事で、彼等だけの王国を築き上げ、特殊な相互利益授与構造を維持しているからである。

結局、「司法」「立法」「行政」のいずれを取っても、国民に奉仕するシステムにはなっていない国、それが日本である。

「国民の生活」を第一に据えた政治家は、この特殊な構造の力によって、葬り去られようとしている。

いつまでたっても、日本は変わらないのだろうか。


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