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僕は人一倍他人の成功を妬む性格なのだけど、この傾向はどこから来ているのだろう?
他人の成功の朗報は、聞く人にショックを与えることがある。聞く人は、自分が欲しいと思っていたものを他人が得ることで、“それ”が永遠に自分の手には届かないところに行ったように感じる。また彼は、“それ”を得ているかどうかで、人生はまったく違うと考えている。
なぜこのような極端な思い込みを僕や人はもつのか?
他人が“それ”をもつと、自分には“それ”がないことが意識され、自分には何もないように思えてくる。自分は無色透明か、それよりも小さいものだと思えてくる。さらに、“それ”を得られなかったことが自分の人生最大の失敗に感じられる。
あれかこれかで自分の人生を考えている。
妬み・羨望をもつ人物というのは、尊敬すべき人のイメージからはもっとも遠い。誰もそういう人間にはおそらくなりたくない。しかし多くの人はおそらくその感情をもっている。
いずれにしても妬み・羨望は、自分の中にまちがった思い込みがあることを示している。間違っていると頭では分かっても、私たちはそれからなかなか逃れられない。
「ねたみに伴う痛みは、体の痛みのようなもので、人の活動を止め、異常を知らせる役目をします。この場合の異常とは、近くのものがよく見えなくなっていることをいいます。
ねたみとは『心の遠視』なのです。一番近い所が見えない。自分の人生に必要なものや価値あるものが、目に入らないのです」(トマス・ムーア『失われた心 生かされる心』126頁)。
トマス・ムーアは、ねたみは、それ自体はたしかに心に痛みをもたらすが、じつは妬みのような神経症は、「運命の根本的な現実を知ったときのさらに大きな痛みから、『心』を守るためのもの」と指摘しています。
例えば、過去に惨めな境遇に接していたとき、その惨めさに直面する勇気をもてなかった人は、自分の惨めさ・虚無感を直視する代わりに、有形無形の“モノ”を得ることに希望を見出し、それらを実際に得ている人への羨望・敵視の視点をもつようになります。
「時として願望は『心』を圧迫し、つらい虚無感から逃れようと、非現実的で浅はかな可能性へと目を向けさせます」。その際に羨望の念を持つ人に欠けているのは、例えば「自分のみじめさと空しさを感じる能力」だとムーアは言います。
僕が他人に羨望の念をもつとき、僕は何から目をそらそうとしているのだろう?
涼風
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