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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『スター・ウォーズ エピソード3 / シスの復讐 』

2006年05月27日 | 映画・ドラマ
今頃というか、公開から一年経って『スター・ウォーズ エピソード3 / シスの復讐 』を観ました。公開から一年経って商業的には成功した作品を僕が心配する必要はないのだけどそれでも心配してしまうような印象です。

これはエピソード1・2・3に共通することだけど、まずこれでもかと出てくるCGが白々しくてそれだけで興醒めしてきます。これではほとんどアニメと実写の合成という感じで、SF映画の有り難味というものが全然ない。最初の戦闘場面でもヘンに小技にこだわって、せっかくジェダイが戦闘機に乗っているのにスリルも何もありません。

こうした画面の薄っぺらさと新3部作の物語としてのつまらなさはきっと結びついているのでしょう。

言うまでもなく『スター・ウォーズ』の中心的テーマは“フォース”という概念にあります。それは人間がもつ負のエネルギーである「怒り」「憎しみ」「嫉妬」といったものを手放したときにその人に備わる力です。単なるオカルト的な超能力ではなく、個人のエゴを越えたところに、外面的な物体の動きにとらわれない力を手に入れるというエピソードは、私達にとって、信じられる事柄と信じられない事柄の境界に触れるようで、とても興味をそそられるのです。

超能力というもの自体は単なる胡散臭い話です。しかし、個人の人間的成長(エゴの超越)によって感覚が研ぎ澄まされるということ自体は、多かれ少なかれ多くの人が経験しているし、だからこそ私は“フォース”という概念に真実味もいくらか感じます。

またこうした考えは、昨今のヒーリング、心理学、右脳開発などの普及ともつながっているでしょう。私達の時代の雰囲気と『スター・ウォーズ』の世界観には通底するものがあります。

1977年の『スター・ウォーズ』第一作と79年の第二作は、そうしたテーマをじつにうまくSF物語と結び付けていました。個人の人間的成長と超感覚的能力の発達という人間的・超人間的テーマが、うまく劇として成立していました。超感覚的世界をテーマにしながら、それを生身の人間の世界のお話として通用させていたからこそ、荒唐無稽であるにもかかわらずそこにはリアルさがありました。だからこそ最初の二作は傑作になりえたのです。

そう、最初の二作の『スター・ウォーズ』は人間的生々しさがあり、その生なましさをもつ人間が成長することで超人間的な能力をもつようになる過程がリアルに描かれていたのです。

それに対し三作目の『ジェダイの帰還』(1983年)が駄作だったのは、“フォース”という概念を深く掘り下げることもなく、また戦闘もののお話としてもメリハリの内容になっていたからです。

それから20年近くたってエピソード1・2・3がこうやって完結したわけですが、この新3部作は次の点で面白くならなかったのだと思います。

それは、あまりにも表面的にしか“フォース”について語ろうとしなかったこと。

たしかに“フォース”は個人的な怒りや憎しみを克服することで得られる力です。そうしたレッスンは、私達一人一人にとって日々の生活で求められていることでもあります。

しかし、いくらそれが普遍的なテーマであっても、それをそのまま役者のセリフを使って直截に語っても新味はありません。

怒りを手放すこと、それは大事なことですが、今さらそれを言葉や分かりやすい映像にされても、分かりきったことを言われているだけで退屈になるだけです。

重要なのは、そうした怒りや憎しみといった人間の負のエネルギーを、これまでにはなかったような形で私達に気づかせてくれることです。いかに私達が「正義」という美名の下に攻撃・怒りを発散させようとしているか、自分達でも気づかないうちにエゴを爆発させ、それに気づいていないのか、新しい角度でアプローチすることで、あらためて私たちは人間の感情の負のエネルギーを手放すことの大切さを知ります。

しかし新3部作はそうした語る努力をせずに、たんに「怒り・憎しみはよくない」と分かりやすく言っているだけです。そんなことは小学校の道徳の授業でも言われています。

その小学校の道徳の授業でも言われている退屈な言葉を、退屈ではなくあらためて「やはり怒りを手放すことは大事なのだ」と思わせる形で言って欲しかったのですが、そうした努力の形跡が新3部作には見られないのです。

最初の二作が素晴らしかっただけに、残りの四作品の出来が余計に物足りなく感じられる、そんなシリーズになってしまった印象です。


Takeshi NAKANISHI


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