CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

昨日は私のお誕生日(^^)

2019-02-13 11:50:42 | 日記
よく生まれたなぁと思う。
本当に奇跡だ。
母は私の兄を産んだあと、子どもはもう産むなと言われていた。
そして、事実、三人も中絶をしている。
3年の間に5度の妊娠。
5番目が私。
母はひとりっ子だったから、兄に弟か妹を・・・と思っていたらしい。
が、ことごとく、阻止された。
ある事情から、二人の子どもは育てられないと。
三度、阻止された母は、私を孕った時、誰にも言わなかった。
みんなに隠していた。
その精神状態も影響してか、お腹の中の私も静かにしていたようだ。
さすがに5ヶ月に入り黙ってはいられなくなり、周りに知られることになる。
もうここまで成長していれば、中絶とは言われないだろうと思ったのだろう。
しかし、周囲の出した結論は、中絶だった。
私の命は生まれる前に絶たれることになった。
その病院で中絶のオペをするのは『水曜日』だった。
予定していたその日に、急患が入り、オペが伸びた。
そして、次の週、オペを前に病室には父がいた。
私は、その日初めて『胎動』した。
母は、父に言った。
「赤ちゃん、生きてる、動いたの」と。
父は母のお腹に手を当てる。
そして、二人は、病室から逃げ出した。

5ヶ月目の中絶を病院に掛け合ったのは祖母だった。
しかし、病院から手に手を取って逃げ出した父と母のお陰で、
堕胎できない時期になったのだろう、出産が決まった。
出産が決まった時、祖母は激しく憤ったそうだ。
男の子が産まれたら殺す!とまで言ったそうだ。
女の子で良かった。。。
私は男のような性格だと自分でも思うが、
お腹の中で祖母の言葉を聞いて、
殺されたら大変と性転換したのかなぁ。。。

結果、『女の子』であった私は、祖母に溺愛されて育った。
祖母が望むお淑やかな女の子ではあり得なかったが、祖母の部屋にいつもいた。
小唄のお師匠さんだった祖母の部屋には三味線がふた棹かかっていた。

私を産んだ翌日から別病棟に入院した母。
私は病院にいる間、『久仁子』という名前の看護師が世話をしてくれた。
病院が東邦医大の大森病院だったので、『邦子』と命名された。
自宅に戻った私は祖母の元に置かれた。
結果、母は私を抱いたことがない。
触らせてもらえなかったようだ。
母親に抱かれたことのない私は、子離れできない母親になった。

まぁ、クールな関係ではあるが。。。

とにかく、よくぞ産まれた、と自分でも思う。
そんな私の誕生日、昨日は多くのメッセージをいただいた。
今、私は、とても幸せだ。
それは出会った人々あればこそ。
感謝の気持ちでいっぱいの誕生日を過ごした。

昨日お邦は、56歳になりました(^^)