うさぎくん

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献灯使

2017年12月14日 | 本と雑誌

 

多和田葉子 講談社2014

3年前の出版だがリアルタイムでは知らなくて、ロバート・キャンベル氏がSNSで多和田氏との対談をするというお知らせの中で言及していたことが、本書を知ったきっかけだ。キャンベル氏は作品について本の数行言及されただけなのだが、なぜか気になり、Amazonで検索して入手した。表題作のほか、いくつかの短編を収録しているが、いずれも震災後の近未来日本?がテーマとなっているところが共通している。

帯のコピーに「デストピア文学の傑作!」とある。ユートピアの対義語である、ディストピアが、文学ジャンルの一つとして確立しているのかどうか、僕にはわからないが、言われてみると僕の身近にも「ヨコハマ買い出し紀行」「少女終末旅行」など(どちらも漫画だけど)いわゆるディストピア系といわれる世界には結構足を踏み入れている。「カブのイサキ」もちょっとよんだけど、葦奈野さんの作品は基本的にそっち系ですね。。

これらディストピア系の作品に共通しているのは、と普遍的に語れるのかどうかは自信がないが、僕の目にした範囲の作品で言えるのは、どれも時間の観念が希薄になっているのが印象に残る。平たく言えば、のんびりしている(平たすぎか。。)。基本的に、希少資源の再分配という観念が半ば崩壊して、ないものは仕方ないし、なくても困らない。どうしても必要なものはどうにか手に入るし、場合によっては余るほどある。みたいな前提をとる作品が多い。「ヨコハマー」でも、アルファさんは人類には及びつかないほどの長い時間を生き続けることが、本人の悩みとすらなっているし、経済が崩壊している割には電気やガス、食料などには不自由していない。。「少女終末紀行」でも、時間の観念は希薄だ。

献灯使では、老人たちの寿命が著しく伸長?されていて、100を超えても心身ともに健康でいる半面、こどもたちの健康はひどく損なわれている。しかし、当の子供たちがそれを悲観する気配は全くなく、当然のこととして受け止めている。老人たちはそんな子供たちに、自分たちの世代が犯した罪を見出し、いつまでもつづく自らの寿命とともに、当惑している。

今の日本という時代背景が、これらの作品を生み出したということはたしかだろう。特に献灯使は、多和田氏が(おそらく震災時に住んでいた)ドイツから、日本を見たときの印象を文学世界に投影したものなのだろう。作品では日本が「鎖国」して、海外からの文物は時に不透明な形で禁じられ、人の目に触れないように圧力がかけられている。人々はそうした社会に困惑しながらも、少なくとも表面上は順応し日々の暮らしを過ごしている。

もしかしたら日本の鎖国という発想は、今日のこの国の文化圏に浸っていると生まれえない視点かもしれない。そう考えてみると、自分の中にも鎖国への衝動、というか、鎖国の魅力、みたいな日本人的発想は、あるように思える。

献灯使は一定のボリュームを持つことが、作品の陰影を深くしていることは確かだが、収録されているいくつかの短編のほうが、切れ味は良いように思える。最後の「動物たちのバベル」はとても楽しい。寝入りばなに、夢の中でおはなしを作っていく、みたいな軽さがある。たとえば一緒に暮らしているネコたちと夜のニュースを見ながら、おたがいに感想を言い合ってみる、ことを想像してみるみたいな。。

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