野崎孝訳 新潮文庫 平成2年
転居のときに、おそらく箱の奥の方から出てきたもの。紙は茶色くなっているが表紙はきれいで、たぶん買ったまま読まずにおいたらしい。平成5年の重版だから、20年ちょっと前に買ったようだ。
フィッツジェラルドは、実はこれまで読んだことがない。食わず嫌いというわけではなく、ただ単に読む機会がなかっただけだ。10年前には、サリンジャーも読んだことなかったし、「ダブリン市民(ダブリナーズ)」も手にしていない。「嵐が丘」を読んだのは2年前だかのことだ。
チャンドラー「ロング・グッバイ」も、本書とほぼ同時に読み進めたが、どちらの作者も、読みながら村上春樹氏の作品をつい思い出してしまう。特に初期の長編(風の歌を聴け~ダンス・ダンス・ダンス)あたりは似ている。そんなことを知らずにいままでいたんだなあ、と思ったりもした。
その村上氏もフィッツジェラルドの翻訳はしているが、今回読んだのは野崎氏の翻訳だ。まあ手持ちの本なので、翻訳者を選んだわけではないのだが、結果としてこれは良かったのかもしれない。チャンドラーも村上訳だが、文章の巧拙という次元ではなく、読んでいるとどうしても背後に村上氏の姿がうっすらと見えてしまうところが、小説家の翻訳の難点?だ。その人の作品をよく読んでいたりすると、なおさらだ。
今まで読んだことがなかった、と書いたが、もしこれを若いころー30代半ばごろに読んだとしたら、それなりに受け止めることはできたとしても、すこし味わいつくせないところが残ったかもしれない。そんなことは人によるのであって、自分以外には当てはまらないだろうが、もう少し年齢を重ね、身の回りからいろいろなものがこぼれ落ちていくのを実感するようになった頃ー自分にとってはおそらく、5,6年ほど前に読み始めていたら、おそらくかなりはまり込んで行ったかもしれない。
今の自分はそこから少し回りこんだところに立っていて、作品にストレートにはのめりこむことはできないようだ。もっとはっきり言えば、主人公たちよりも年を取ってしまい、微妙なニュアンスがはまり込まないのだ。
ちょっとくどくど書きすぎたかな。。いや、その一方でどの作品も、大いに堪能できたのも事実です。
村上氏が絶賛していたという話もネットで読んだが、「バビロン再訪」はやはりとても味わい深い作品だ。映画とかになっているのかな・・不思議と、映像が頭に浮かんでくる。もし才能が与えられるなら、漫画かなにかの形で再現してみたい気もしてくる。
登場する人物それぞれに味わいがあるが、例えばチャーリーの視点から見た、女性たちとの関係ーオノリア、ロレーン、マリオン、ヘレン。彼女たちそれぞれとチャーリー、またはそれぞれの女性同士の関係、そこにチャーリーが絡んだ時の関係など、その辺の微妙な絡みが、重層的な味わいとなって心に響いてくる。
チャーリーの、オノリアに寄せる思いがなんとも切ない。僕には娘はいないが、前からよく考えることがある。自分に娘がいたらたぶん、とても幸せにも感じられるけれど、同時に相当つらく切ない思いも味わっていただろうな、と。