「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に坊主の絵を描いた」という文章を読んで意味がすぐに分かる人は少ないでしょう。
これは月本洋「日本人の脳に主語はいらない」に出てくる文章を縮めたもので、原文はもう一度「坊主が屏風に描いた」が繰り返されていてさらにわかりにくくなっています(図も縮めたものです)。
この文章は最後の「坊主が屏風に坊主の絵を描いた」が主文で、その前の「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた」が修飾部の文です。
この修飾部の文は「(坊主が屏風に描いた)坊主が屏風に描いた」でカッコの部分が次の坊主を修飾しています。
そこでこの文章は「((坊主が屏風に描いた)坊主が屏風に描いた)坊主が屏風に屏風に坊主の絵を描いた」という構造で、このように表現すれば何とか理解できます。
図はこれをイメージ化したもので、4人の坊主を右から順にイ、ロ、ハ、ニとするとこの文は「((坊主イが屏風に描いた)ロが屏風に描いた)ハが屏風にニの絵を描いた」という形にすればややわかりやすくなります。
このように図にしてイメージ化したり、構造を図式化すれば何とか意味が分かりますが、この文章を読み下すだけでは理解できる人は少ないでしょう。
この文章が分りにくいのは、修飾部が長く、修飾される主語が最後のほうに来ているので読んでいる途中の段階では文の構造が見えないためです。
日本語の場合は述語や結論が最後のほうに来るので、途中までは何を言っているかわかりにくく、文の最後になって全体の意味が分かる場合が多いようです。
書かれた文章の場合は、読み返したりあるいは文末部分を同時に目に入れて論旨を把握できますが、話し言葉の場合はそうはいきません。
音読と黙読とどちらが文章を理解しやすいかという場合、黙読のほうが理解しやすいという意見と、変らないとか、音読のほうが理解しやすいという意見があります。
英語話者の場合は変らないとか、音読のほうが理解しやすいという人もかなりあるそうですが、日本語の場合は黙読のほうが理解しやすいとする人のほうが多いようです。
日本語の場合は文章の結論が後に来るので、音読をした場合文章の構造が途中段階までわからないままに読み進まなければなりません。
修飾部分とか前提などが長いと、前に読んだ部分を忘れてしまったりして、全体として理解できなかったりします。
黙読であれば先を見たり、先に進んでから前の部分を見たり、あるいは文章をある部分をひとかたまりとして見るといったことが可能ですが、この場合は視野がある程度広く、同時に複数箇所を見る能力が必要です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます