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漢字の古い字体

2008-09-02 23:59:20 | 言葉と文字

 園芸という意味で使われる「芸」という字は「藝」という字の略字で、「芸」という字自体は本の虫除けに使う香草だということで別の字だそうです。
 旧字体でなければいけないという人は、「芸」の読みは「ウン」で意味も違うのだから園芸や芸能の意味の「ゲイ」に略字として「芸」を使うのは間違いだと主張します。
 ところが漢和辞典を引くと「藝」の元の字は草冠と下の「云」の間の形で、それだけで人がしゃがんで木を植えている形の象形文字で、草冠と「云」はあとから加えられたものだということです。
 「藝」という字自体もさかのぼれば誤った字で、声高にこれが本来の文字の形だということはできないのです。
 略字はダメで繁体字でなければいけないといっても、「法」という字も略字で「ホウ」という読み方はないのに、繁体字で書こうとする人はいません。
 漢和辞典の説明では元の形は、サンズイにの島の中にいる鹿に似た「タイ」という神獣の形で、行動を抑制するワクを表わすといいます(他の解釈もあるようですが)。
 略字の「法」はこの神獣の部分を取り去っているので、元の意味との関連を失っているのですが、だからといって不足を言う人はいません。

 「芸」にしても元の意味では園芸の意味に限定され、現在のように芸術、遊芸、工芸、技芸のような意味はありませんから、「藝」という字にするとかえって不都合です。
 「藝術」と書けば園芸の技術に解釈され、アートとはいめーじがてしまいます。
 「法」にしたところで、現在は生活を規制するワクの意味だけでなく、作業や製造の方法、物理化学の法則、魔法、仏法など超自然の法則など広い範囲で使われるので、元の字義はかえって邪魔になります。
 言葉の意味が変化すれば文字の形と、意味のつながりが薄れていったり、あるいはつながりを失っていきますが、そのほうがかえって好都合なのです。

 発音は変化しても文字の形は変化すべきでないという人は、いわゆる旧字体が初めからあったような印象を持っているわけではないかも知れませんが、時代をさかのぼればさかのぼるほど正統であるという感覚を持っているのでしょうか。
 元の形を維持すべきだということなら、漢字は現在の楷書でなく、甲骨文とか金文にあるものはそこまでさかのぼるべきだということになります。
 そうすると、たとえば「斉」のように、現在とは全く違った形にもどらなくてはならなくなってしまいます。
 甲骨文や金文になると現代の感覚からすると、文字というよりは図形で、そうなると意味の解釈はどうしても感覚的で、連想主体になります。
 たとえば「斉」の源字の三つの図形はこれだけ見ては何のことが分りません。
 ある学者はこれらを簪とみて、三本の簪が髪にそろって刺さった状態だと考え、また別の説では穀物の穂先が出そろった形だといいます。
 両方とも「そろう」という意味だとしているのですが、イメージは違います。
 また「男」という字は普通には、「田」+「力」で力仕事をするということで男を意味するというのですが、甲骨文では田の横に描かれているのは力でなく土をすき返す道具だといいます。
 意味はどちらも男の意味だというのですが、これは意味が分かっているので「男の意味だ」と結論するのですが、あらかじめ意味を知らなければ「オトコ」だという判断に行き着いたかどうか疑問です。

 図には載せていませんが「取」という字は耳の横にある「又」は手の意味で耳を取ることを意味しているということです。
 ところが意味の解釈となると一説では動物の耳を手でつかめば、動物にかまれずに制御できるということから出来た字だとしていますが、別の説では戦功の印として敵の左耳を切とって持つという意味だとしています。
 耳は二つあるので左耳を切取るという説が合理的のようですが、いかにも残酷で本当にそんなことが行われたのかと思いますが、豊臣秀吉のときに日本兵が朝鮮兵の鼻を切り取って軍功の証明とした例もありますから、そういうこともありえます。
 いずれにせよ文字の形からではどちらが正しいともいえないので、漢字の字源解釈というものは学問的にはともかく、実用的には意味がないのです。
 取るという字を読んだり書いたりするする上で、耳を手でつかんだり、切り取ったりというイメージは邪魔でしかないからです。


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