60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

片側から見るクセ

2008-11-25 22:58:20 | 視角能力

 図Aでは1番と3番が凹んで見え、2番と4番が凸型に見えると思います。
 1番と3番は上が陰になっているように見えますが、2番と4番は下が陰になっているように見えます。
 体験的には光が上から来る場合が多いので、2番と4番が凸型に見えるのです。
 こういう例を見ると、上の部分が明るくて下の部分が暗ければ凸型に見えるだろうと一般化してしまいがちになります。

 ところがB図を見た場合はどうでしょうか。
 上が明るく、下が暗いほうが凸型に見え、上が暗く下が明るいほうは凹方に見えるというのであれば、1番と3番が凹んで見え、2番と4番が凸型に見えるはずです。
 実際には、人によっては1番が凸型に見えたり、3番が凸型に見えたりします。
 右から見るクセのある人は1番が凸型に見え、逆に左から見るクセのある人は3番が凸型に見えます。
 また、2番と4番が両方とも凸型に見えたとしても、どちらか一方のほうが他方よりもより浮き出て見え、より凸型に見えたりします。
 つまり、右から見るクセのある人は4番のほうが3番よりも浮き出て見え、左から見るクセのある人は2番のほうが浮き出て見えるのです。

 このような違い出てくるのは、A図の場合は上の部分と下の部分が狭いので、注意を引きにくく、左右の横の部分は長いので注意を引きやすいためだと考えられます。
 同じように1番と3番が両方とも凹んで見えたとしても、左から見るクセのある人には、1番のほうが3番より凹んで見えます。
 つまり、右側から見るクセのある人は、3番と4番の凹凸がハッキリと対照的に見え、1番と4番の差はハッキリと見えません。
 そこで、意識して左から見るようにすれば、1番が凹んで、2番がハッキリ浮き出て差がハッキリ見えるようになります。

 こうした経験をしてから、A図のほうを見ると単純に3番と4番が浮き出て見えるとしていたのが、左右どちらから見るかによって2番の萌芽より浮き出て見えたり、4番のほうがより浮き出て見えたりします。
 そうして、1番と2番との凹凸の差のほうが、3番と4番の凹凸の差がハッキリ見えるようであれば、左側から見るクセがあり、3番と4番の差のほうがくっきり見えれば、右のほうから見るクセがあるということがわかります。
 左から見るクセがある人は、利き目が左であるということかどうかはわかりませんが、どちら側から見る癖があるかがわかれば、別の側からも見る訓練をして、視覚のコントロール力を向上させることができます。


視覚と体のクセ

2008-11-22 23:35:06 | 眼と脳の働き

 利き腕があるように、利き目というものがあるといわれていますが、利き目と言うものがどういうものかはハッキリわかりません。
 どちらの目が利き目かを簡単に知る方法として、親指と人差し指で輪を作り、手を顔から離し、この輪を通して遠方のものを見た場合、両眼でみたときと片目でみたときを比べ、位置のずれが少ないほうが利き目だとするというのがあります。
 たとえば右手の指で輪を作り、これを通して遠方のものをみたとき、右目でみたときより左目でみたときのほうが、両眼でみたときより位置がずれていなければ、左目が利き目だというわけです。
 こうしてみると、たしかに片方の目で見た場合は、もう片方の目で見た場合よりも位置のずれが小さいので、なるほどこれが利き目かと思ってしまいます。

 ところが右手で輪を作るのではなく、左手で輪を作ってみるとどうでしょうか。
 右手で輪を作ったときと同じ側の目で見たほうがずれが少ないかというと、そうではなく今度は反対の目で見たほうがずれが小さく見えたりします。
 これは指で作った輪が、顔の正面にきているかどうか、顔が見るものに正対しているかどうかで、見え方が違ってしまうためです。
 人によってはクセがあって、ものを見るとき体を正対させず斜めに構えてしまう人もあり、また右手よりも左手のほうが指で作った輪を正面に持ってきやすいといった人もいます。
 つまり、この方法ではものを見るときの姿勢とか、体のクセを知ることができるということで、利き目がどちらかが分かるわけではないのです。

 たとえば、図の左側の12個の円形を見るとき、上のほうが明るい円は前に膨らんで見え、上が暗い円は凹んで見えます。
 これは光が上から来るという体験があるために、脳が上のほうが明るい円を凸型と解釈するため、凸型に見えるといわれています。
 しかしこれは図を見るとき、視線が上からやや下に向かっているためで、目の位置を下げて上目づかいにみると、下が明るい円も凸型に見えるようになります。
 図を見るとき、視線を下から上に上げてみてゆく、つまり明るいほうから暗いほうに向かって見ていけば、凹方に見えていた図形が凸型に見えるようになるのです。

 右側の12個の円は左側が明るいものと、右側が明るいものとあります。
 これらは上から光が当たっているわけではないので、凸型に見える理由はないのですが、あるものは凸型に見えたり、あるものは凹型に見えたりします。
 もしものを見るとき、左から右に見ていくクセがあれば、左側が明るい円が凸型に見え、右から左に見ていくクセがあれば右側が明るい円が凸型に見えるでしょう。
 日常生活ではとくに左から光が来るとか、右から来るとかいったことはありませんから、左が明るいほうが凸に見えるという人は、左から右へ視線を動かすクセがあるといえます。
 しかしこのことが、左目が利き目だということを示しているかどうかはわかりません。
 ただ、見るときのクセが自覚できたわけで、逆方向の見方をして、見え方が逆転するようにすれば、視線のコントロール力が強化されます。


注意の幅

2008-11-20 23:23:27 | 注意と視野

 左側の図を見ると、白と黒の縞模様の棒が5本、縦に並んでいますが、垂直でなく斜めに見えます。
 右側の図は、左の図の灰色の部分を白くしたもので、黒い部分だけが見えるようになっています。
 右側の図を見ると、黒い棒は縦に垂直に並んでいるのに、やや斜めに並んでいるように見えます。
 この黒い棒は曲がって見えますが、二つの長方形を少しずらしてくっつけたものです。
 縦の列は同じ形の図形が垂直線上に並んでいるので、垂直に見えるはずなのですが、長方形をずらしてつないでいるため、斜めに見えます。
 しかしこの場合は、一番上の棒と一番下の棒を同時に見ると、4つの棒は垂直線上に並んでいることが楽に実感できます。
 たとえば一番左の列の、上と下の棒を同時に見ると、一列目は垂直に見えます。
 同じように二列目の上と下の棒を見れば、二列目は垂直に見えるといった具合です。

 一番上の棒と一番下の棒に同時に注意を向けてみるのは、距離が離れているので、視幅が狭いと難しいかもしれません。
 この場合上と下の棒を同時に見ようとして、目を見開いてみようとしがちですが、目をことさら見開かなくても、意識を同時に一番上としたの棒に向けてみれば、4本の棒は垂直に並んで見えます。
 また上下の棒を見るのでなく、真ん中にある四つの点二注意を向けてみていると、黒棒はどの列も垂直に見えるようになります。

 右側の図は構成が単純なので、錯視の度合いがやや弱いのですが、、左側の図形になると錯視の度合いがより強く、垂直に見えるにはより強い視線のコントロール力が必要です。
 たとえば一番左の列の、一番上と下の黒い棒を同時に注視しようとしても、視線がスリップしてしまいがちで、二つの黒い棒にのみ注意を向けるのが困難です。
 そのためほかの列の要素が目に入ってしまい、垂直に見えず斜めに見えてしまったりします。
 そこで、上から順に4本の黒棒をしっかり見つめていきます。
 そのあと一番上の黒棒と下の黒棒を同時に注視すれば、全体は垂直に見えるようになります。
 同じように二番目の列、三番目の列について見ていくと、それぞれの列は垂直に見えるようになります。
 選択的注意によって錯視が消えるのです。
 
 こんなことをしてなんになるかというと、上下の視幅を広げることができ、人目で注視できる文字数が多くなります。
 そうすると、認識視野が広げられ、楽に読み取れる文字数が多くなるので、文章を読み取るときのストレスが少なくなります。
 この場合も中央の4つの点に視線を向けて見ていると、灰色の部分が前面に出てきて見え、緋色の枠が黒と白の縞模様の上にかぶさっているよう見えます。
 このとき、灰色の縦の帯が上下同じ幅で垂直に見えますが、それは間接的に黒と白の縞の棒がすべて垂直に見えていることになります。


注視する能力

2008-11-18 23:19:07 | 注意と視野

 A図は正方形なのですが、全体に右上のほうに引っ張られた感じで、ゆがんで見えます。
 正方形だといわれても、見た目では納得できませんから、定規などをあてがってみると境界線がすべて水平あるいは垂直ですから、正方形であることがわかります。
 この図形はチェッカー盤のような市松模様のなかに、黒い正方形のなかには小さな白い正方形が、白い正方形のなかには小さな黒い正方形が二つずつ配置されています。
 チェッカー盤のような市松模様は、A図のようにゆがんでは見えず、正方形に見えるのですから、A図がゆがんで見えるのは、中に配置された小さな正方形が原因だと考えられます。

 ところが、A図の黒い部分を黄色に塗り替えると、B図になるのですが、こちらのほうはゆがみが少なくなり、ほぼ正方形に見えます。
 そうすると、中に小さな正方形が配置されればゆがんで見えるということではないとも考えられます。
 小さな正方形が配置されなければ、ゆがんで見えないけれども、色が黄色のように薄い色ならば、小さな正方形が配置されていてもゆがんで見えないのです。
 ようするに、ゆがんで見えるのは一つの原因によるのではなく、複合的な原因によるのです。
 
 ところで、A図は右上にゆがめられて見えるというだけでなく、視線を向けると動いて見えます。
 何気なく見ていると、図形が動くのでそれにつられて視線も動いてしまいます。
 実際は、図形が動くわけではないので、視線が動いてしまうために図形が動いているように見えるのかもしれません。
 ということであれば、視線を動かさなければ図形は動いて見えるということはないということになります。
 そこでA図を直接見るのではなく、B図のほうを眺めてみます。
 A図のほうに視線を向けなければ、A図は動いて見えるということはありません。
 
 B図を見ているときは、A図は周辺視野にあるのですが、周辺視野にあるものは細かくは見えないのですが、動きは見えます。
 もしA図が実際に動くのであれば、図柄はハッキリ見えなくても、動きは感知されるはずです。
 ところが、周辺視野にあるA図が動いては見えないのですから、A図に視線を向けたときに動いて見えるのは、見ているときに視線が動いてしまうということです。

 そこでA図の一番上の行の三つの黒い正方形をひとつずつ順番に注視していき、最後に三つの黒い正方形を同時に注視するようにします。
 そうすると図形はとまって見えるだけでなく、三つの正方形は水平に見えるようになります。
 同じように二行目についても、ゆっくり順番に注視していき、最後に三つの黒い正方形を同時に注視すると、三つの正方形は水平に見え、図形は静止して見えます・
 視線をコントロールできないと、図形が動いてしまい、三つの正方形は右上がりに見えてしまいます。
 これは横方向だけでなく、縦方向にもでき視線コントロール力が向上すれば、正方形のたての並びが垂直に見えるようになります。
 


注意を向けてみる範囲2

2008-11-15 22:47:17 | 注意と視野

 図Bは図Aの外側の4つの円の外側部分を除いたもので、図Cのほうは逆に内側部分を除いたものです。
 中心の円はAよりBのほうが大きく見え、CもBより小さく見え、Aと同じに見えます。
 これは心理学者の盛永四郎が示したもので、中心円の大きさの見え方を決めるのは、中心円に近い図形要素ではなく、中心円から離れた部分であると説明しています。
 AとCは大きな円の外側部分があるという点が共通で、その結果中心円がBの場合よりも小さく見えるので、中心円を小さく見せる原因が外側だとする説明は説得力があります。

 通常はA図の下にある小さな円に囲まれた円を示し、大きな円に囲まれた中心円のほうが小さく見えるのは、囲んでいる円との対比効果によるという説明がされています。
 盛永説は、対比効果を否定しているのですが、なぜ中心円から離れた部分の影響を受けているかは説明してはいません。
 また、中心円に近接する図形が影響力があるのかどうかもわかりません。

 実は、A図やC図を見るときと、B図を見るときとでは見ている範囲(注視の範囲)の広さが違います。
 写真機の原理と同じで、狭い範囲を見ようとするときは、目が少しズームアップするので、B図の中心円のほうが大きく見えるのです。
 したがって、B図の場合は近接する部分は円形ではなく、単に円弧に過ぎないのですが注視の範囲を狭めているので、中心円をやや大きく見せる効果があるのです。
 A図の左下の図のように小さな円が近接していれば、こちらのほうが大きく見えるのは対比効果によるのだという説明がもっともらしく聞こえます。
 ところがB図のように円形でなくても、中心円が大きく見えるのですから、対比効果でないということは明らかです。
 もし対比効果だというのなら。B図の場合は近接している図形要素は、大きな円の内側部分ですから、中心円はやはり小さく見えるはずです。
 
 注視する範囲が狭められたほうが、やや大きく見えるということは、下の文字列を見てもわかります。
 この場合中ほどの「ERTY」という部分を四角で囲んでいるのですが、囲まれた字のほうは、囲まれていない部分よりもやや大きく見えます。
 四角で囲んでいるから目立つというだけではなく、目が四角で囲まれた場合に注意を絞り込もうとするため、狭い部分に注意が絞られて、文字自体もやや大きく見えるのです。
 文字列全体を見るときよりも、四角で囲まれた部分を見ようとすると、四角で囲まれた部分はレンズを通してみたように、浮き上がってやや大きく見えさえするのです。

 


注意を向けてみる範囲

2008-11-13 22:34:43 | 注意と視野

 a図で小さな円に囲まれている円は、b図の大きな円に囲まれている円と同じ大きさなのですが、a図の円のほうが大きく見えます。
 心理学では、a図の円のほうが大きく見えるのは対比効果によるという風に説明されているようです。
 a図では小さい円に囲まれているからそれとの比較で大きく見え、b図では大きな円に囲まれているのでそれとの比較で小さく見えるということのようです。
 そう説明されるとなんとなく納得した気分になりますが、釈然としない感じもします。
 なぜかといえば、二つの円を囲んでいる円の大きさは、a図とb図とでは大きな開きがあるのですが、中心の円の大きさはそれほど違っているようには見えません。
 対比効果というからには、もっと違いがあってもよさそうな感じがするからです。

 ところで、a図の円を見るときは、とうぜん円に注意を向けてみているのですが、このときは注意を向けてみる範囲が狭くなっています。
 そこで単に円に注意を向けて見るのではなく、円を囲んでいる四角い枠に注意を向けて見るとどうでしょうか。
 まわりの四角い枠あるいは四隅の小さな四角に注意を向けて見ると。真ん中の円は先ほどより小さく見えます。
 そこで再び真ん中の円にもっぱら注意を向けて見ると。元のようにやや大きく見えます。
 つまり同じ円を見るにしても、注意の範囲を狭くしてみるときと、範囲を広げてみたときとでは大きさが違って見えるのです。
 ちょうど写真を撮るとき、狭い範囲をとろうとするときはズームアップするようなもので、見る範囲が異なれば同じものが違った大きさに見えるのです。

 b図のほうは取り囲んでいる円が大きいため、図全体が大きくなっていますから、ちょうどa図の四角形を意識的に見た場合と同じで、注意を向けてみる範囲が自然に広げられています。
 そのため真ん中の円はa図をまわりの四角形にも注意を向けてみた場合と同じくらいの大きさに見えます。
 つまりa図の円の法が大きく見えたのは、囲んでいる円が小さいということよりも、狭い範囲に注意を向けて見ていたからだという風に考えられます。
 ですから逆に、b図の真ん中の円に注意を絞り込んで見ていると、b図全体を見ていたときよりも大きく見えてきます。

 ラマチャンドランという心理学者は、a図とb図の中心の円を指でつまもうとすると、指の構えはaの場合もbの場合も同じ大きさだということを確かめて、目では違った大きさに見えても手指のほうは錯覚しないで、両方同じ大きさということを感知しているとしています。
 しかし上の実験でわかるとおり、同じ円形でも注意を向ける範囲で大きさが違って見えるのですから、目が錯覚しているとは言えないのです。
 円をつまもうとして指を構えるときは、a図の場合もb図の場合も中心の円に注意を向けているので、そのときはa図の場合もb図の場合も同じ大きさに見え、とうぜん指の構えも同じになるのです。

 またa図とb図の中心の円を別々に見るのでなく、両方の目で同時に見るのではなく、同時に見ても、両方の円が同じ大きさであることは実感できます。
 二つの中心円を同時に見るという場合は、注意を向けてみる範囲は同じですから、同じ大きさに見えるのは当然です。
 対比効果という説明は、説明の言葉自体が説得力を持ったために普及してしまったものなのです。


全体的に見る能力

2008-11-11 23:12:56 | 視角能力

 図Aと図Cを見比べると、水平の軸線はAのほうが短く見えます。
 よく紹介されるミュラー.リヤー錯視と呼ばれるもので、実際には二つの軸線は同じ長さです。
 同じ長さなのだということがわかっていても、見比べてみるとやはりA図の軸線のほうが短く見えます。
 ほんとうに同じ長さなのかどうかは、物差しをあてがってみればわかるのですが、目で見ていては納得できないかもしれません。
 
 B図はAとCをあわせた図形ですが、見方を変えると、A図とCzuha B図の中に埋め込まれています。
 B図を何気なく見ているときは、このなかにA図やC図画埋め込まれているということに気がつかないかもしれませんが、注意をしてみれば気がつくはずです。
 とくにA図のほうは中心に目を向ければ目に入るので気がつきやすくなっています。
 C図のほうは左右両側に注意を向けなければならず、その際に余分の線も見えてしまうので、気がつきにくくなっています。
 この場合aという6個の記号に注意を向けて見ると、A図とともにB図に埋め込まれたA図と同じ図形が見えます。
 また外側のbという6個の記号に注意を向けて見ると、C図とともに、B図に埋め込まれたC図と同じ図形が見えます。
 
 そうすると記号aをみたときは、B図の横の軸線はA図の軸線と同じ長さに見えたわけであり、記号bを見たときは、B図の軸線はC図の軸線と同じ長さに見えたわけです。
 したがってA図の軸線と、C図の軸線は同じ長さであることを、気がつかないうちに実感していることになります。
 それでは意識的にA図の軸線と、B図の軸線を比べてみればどうかというと、記号aに注意を向けたまま二つの軸線を見比べると、二本の軸線が同じ長さだと実感できます。
 同じように記号bに注意を向けたまま、B図の軸線とC図の軸線とを見比べれば、二本の軸線は同じ長さだと実感できます。
 つまり、意識的に見比べているのにA図の軸線とC図の軸線が同じ長さだということが確かめられいるのです。
 
 B図のなかに埋め込まれているC図を見るには、記号bに注意を向け、aを無視することができればよいのですが、これが結構難しい課題です。
 bは左右に離れているので、両サイドに注意を同時に向けるのは困難で、また内側のaはどうしても視野の中に入ってきますから、無視するのが困難です。
 したがってある程度の視野の広さと、離れたところに注意を向ける能力が必要です。
 視野を広げて全体的な見方のなかで図形を比較する能力が要求されるのです。
 B図を見るとき、4つのbに注意を向けてみて、C図と同じ図形を見ることができたら、こんどはそのままaにも注意を向ければ、図Aが埋め込まれているのも見えてきますから、そうすると3本の軸線が見えて、それらが同じ長さに見えるようになります。

 図Aと図Cを直接比べるときも、軸線のみに注意を向けずに、4つの記号bと4つの記号aに注意を向けて全体的な見方をすれば、二つの軸線は同じ長さに見えてきます。
 幼児と高齢者がこの図の錯視量が多いというのは視野が狭く、全体的な見方が難しいという理由によるのではないかと考えられるのです。


視線のコントロール能力

2008-11-08 23:24:25 | 視角能力

 図Aでは、左側の図形の中に、右側の六角形と同じ形が埋め込まれているのですが、どのように埋め込まれているかを発見する問題です。
 埋め込まれている場所は狭いので、簡単に発見できそうなのですが、輪郭線がハッキリ独立しているわけではないので、すぐにはわかりません。
 輪郭線が他の線の中にまぎれて埋没しているので、どの部分が輪郭線になっているのか、自然に見ただけではわからないのです。
 
 左側の図形では、平行四辺形に対して、斜めに切る線が7本ありますが、真ん中の一番長い線から左へ2番目の線と、右へ二番目の線で平行四辺形を切ると、右の六角形と同じ形になります。
 このように答えがわかっても、実際にA図を見るとほかの線が妨害刺激となって、六角形を図の中から分別して見ることはかなり困難です。
 真ん中の斜めの線と、そこから左右2番目2本の斜めの線、この3本の線と平行四辺形との6つの交点が六角形をつくっています。
 したがってこの6個の交点を意識して見れば6角形が見えてくるのですが、紛らわしい点がそばにあるので見にくくなっています。
 6つの交点をひとつづつ、順にゆっくり見ていけばよいのですが、視線をコントロールする力が弱いと、ついほかのところに視線が逸れて形がわからなくなってしまいます。
 また視線を順に移動したとき、前の点は周辺視野の中に入っていて、見えはするのですが忘れてしまう場合があります。
 ゆっくり、繰り返して交点を順に見ていけば、視線がコントロールできるようになり、、記憶も固定されて、六角形が見えるようになります。

 B図では、真ん中の横線は水平線なのですが、右下がりに傾いて見えます。
 この場合、横線の上にある黒い四角形は、すべて同じ大きさの四角形なので、四角形の下辺に接している横線は水平です。
 そのようにアタマでは理解していても、実際に図を見るとやはり横線は右肩下がりに見えます。
 そこで上下の接している二つの黒い四角形を左から順に一秒ずつ見ていきます。
 同じ大きさの図形を見ていくので、上下の真ん中の線は水平に見えるようになります。
 一組ずつきちんと視線を向けて見ていけば、横線が水平に見えるのですが、視線をふらつかせてしまうと、横線が斜めに見えてしまったりします。
 つまり、きちんと視線をコントロールして見ていっていけたかどうかは、真ん中の横線が水平に見えたかどうかで判定できるのです。

 この場合は図の真ん中、つまり上の黒い四角の三番目と四番目の間の白い部分に視線を向け、意識を集中してみていると、真ん中の横線は水平に見えるようになります。
 集中力が弱く、つい別の部分に視線が動いたりすると、横線は傾いて見えてしまいますから、視線を真ん中に集中できたかどうかは、横線が水平に見えるかどうかで判定できます。
 また一番左の四角形の組と、一番右側の四角形の組とを同時に注意を向けて見ると横線は水平線に見えます。
 このように錯視図形は視線のコントロール能力を上げる練習に使えると同時に、コントロール能力を判定する物差しにもなります。


視線のコントロール

2008-11-06 23:36:06 | 視角能力

 図Aでは、縦の4本の線は垂直線なのですが、ななめに見えます。
 交差している短い斜めの線が妨害刺激となっているためで、この斜めの線がなければもちろん縦の線は垂直なのですから、垂直に見えます。
 したがって、この斜めの線から切り離して、縦の線にのみ注意を向けて見ることができれば、縦の線は垂直に見えるはずです。
 ところが、縦の線を見ようとして視線を向けると、同時に斜めの線も目に入るので、縦の線にのみ注意を向けるのは、なかなか難しいものです。

 ここで図の上部中央にある黒い丸に視線を向けてじっと見つめます。
 そうすると図のほかの部分は周辺視野で見ることになり、細かい部分はハッキリとは見えません。
 しかし縦の線はサイズが大きいため、周辺視野で見ても輪郭が捉えられ、垂直線であることが見て取れます。
 斜めの小さな線は、見えてはいるものの細部がハッキリ見えないため、干渉度が減っているのです。
 上の黒い丸に視線を向けたのは、ひとつの場所に注意を集中させ、他の部分を周辺視野で見ることが目的なので、ここでなければならないということはなく、下の黒丸でも結果は同じです。
 要は視線を固定し、一点を集中してみるということで、集中できず視線が動いてしまうと縦の線は斜めに見えてしまいます。

 一点に注意を集中させた場合は、他の場所がぼやけて見えてしまうので、縦の線が垂直に見えるといっても、不満が残るかもしれません。
 そこで今度は、上下の二つの黒丸を同時に見るようにします。
 そうすると一点を集中視した場合と比べ、斜めの線もハッキリ見えますが、縦の線は垂直に見えるようになります。
 二点を同時に見るようにすると、焦点が画面の向こうにあるようになるので、図は焦点があっていないので、ややぼやけて見えます。
 焦点を画面上にあわせず、遠くを見るような目で見るというやり方です。

 B図の場合はA図を斜めにしたもので、円形の枠の中に入っています。
 この場合もA図のときのようにすれば長い線が平行に見えるようになるのですが、この場合は真ん中の黒丸に視線を向けて集中視すれば長い線は平行に見えるようになります。
 この場合は円形の中を直接見るのではなく周りの灰色の部分全体に注意を向けてみるようにすると、長いほうの線は平行に見えるようになります。
 注意を一点に集中させて見るか、注意を広く分散させて見るか、いずれかにすればさくししなくなるということです。
 何気なく見れば、目は自動的に動いて脳による視覚情報の処理も自動的に行われるのですが、目を意識的にコントロールすれば、錯覚しなくなるという例もあるのです。
 

 


錯視が減少してハッキリ見える

2008-11-04 23:44:45 | 視角能力

 図はフレーザーの渦巻き錯視と呼ばれているものです。
 白と黒のヒモをより合わせたものが渦巻状に見えますが、実際は同心円となっています。
 渦巻状に見えるというのは錯覚なのですが、同心円であるということは、指でねじれヒモをなぞっていくと、元の場所に戻ることで確かめられます。
 目でなぞっていってもよいのですが、途中で内側の円にスリップしてしまったりするので、指でなぞるのが確実です。
 指でなぞってみて、同心円であることが確かめられても、、目で見るとやはりねじれヒモは渦を巻いているように見えます。
 それでは、どうしても目で見た場合は、渦巻きに見えてしまうのかというと必ずしもそうではありません。

 図には外から二番目のねじれひもの内側に、白い小さな輪を書き加えてあります。
 この白い輪をひとつずつ順にゆっくりと見ていきます。
 この白い輪は外側から二番目のねじれひもの輪と、三番目の輪との間にしかないので目で順に追っていってもスリップするということはありません。
 その結果この小さな輪を順に目で追っていっても、途中でスリップすることなく元の位置に戻ることができます。
 指を使わなくても、目で見ても外側から二番目のねじれひもが渦巻きでなく輪になっていることが確かめられたのです。
 しかしそれでもまだ、ねじれひも自体を見ると渦巻状に見えます。
 つまり、白い小さな輪を見ていくことで、間接的に理屈の上でねじれひもが渦巻状ではないということを確かめただけで、実際にねじれひもを見るときは、渦巻状に見えてしまっているのです。

 それでは、こんどは小さな白い輪だけを見ていくのではなく、その外側にあるにじれ品もの白いほうのヒモを同時に見ていくことにします。
 ひとつの白い輪にひとつの白いヒモの部分が対応していますから、同時に順に見ていくことができます。
 その結果、ねじれひもを順に見ていって、一周して元に戻ったことになります。
 これを数回繰り返した後は、白い小さな輪でなく、ねじれひもだけを目で追っていってもスリップすることはなくなります。
 こうしてねじれひもだけに注意を向けて、何周かすると、ねじれひも全体を見ても渦巻きでなく、円に見えるようになります。
 じっさいに目でなぞってみて、円形であるということを確かめたので、円全体を見てもスリップしにくくなっているのです。

 外側から二番目のねじれひもが円形に見えるようになったら、今度はその内側の三番目のねじれひもを同じように見てみます。
 この場合もねじれひもの、白いほうを順に見ていくのですが、、外側のヒモを見ていった経験があるので、やりやすくなっています。
 これも何周かすると、このヒモ全体をみたとき、渦巻きでなく円形に見えるようになります。
 
 こうしてねじれひもが渦巻状でなく、円形に見えるようになってきてから、この図形全体をみたとき、図全体がくっきりと見えるようになっていることに気がつくはずです。
 最初に図をみたときは渦巻状に見えるため、図の部分部分があいまいに見えるため、ハッキリしない部分が多いのですが、ねじれひもを目で注意深く追っていったために、図の部分部分がハッキリ見えるようになってきているのです(外側から三番目の次は四番目、次は五番目と順に内側の円について目でなぞることはできますが、五番目以降は図自体があいまいなので無理になぞると、目が疲れるのでやめたほうがよいでしょう)。
 
 


縦の視野を広げる

2008-11-01 23:18:24 | Weblog

 図Aの四角形の中の縦線は、同じ長さで等間隔に同じ高さで並んでいるのですが、上端の位置はでこぼこのように見えます。
 直線を囲む四角形の影響で、縦線は等間隔に整列しているようには見えないのです。
 縦線の上端はそろっているのだということを知っていても、やはり上端は一致していなくてずれがあるように見えます。
 これは、中の縦線とそれを囲む四角形を切り離して見るのが難しいためです
 そこでB図のように、枠の四角形の色を変えて、赤くしてみると同でしょうか。
 A図の場合よりも、四角形と縦線を切り離してみることができるので、縦線が同じ高さで並んでいるいるように見えやすくなります。

 A図の場合は四角形と縦線が同じ色であるため、縦線を四角形から切り離してみることが難しくなっているのです。
 漫然と見れば縦線の上端は不ぞろいに見えるのですが、縦線を四角形から切り離して見ることができれば、上端はそろって見えるだろうということは予測できます。
 縦線だけに注意を向けて、六本の縦線を同時に見ることができれば、、縦線の上端はそろって見えるのですが、視線を動かすと集中が切れて、また縦線の上端は不ぞろいに見えるようになります。

 ここでA図の縦線部分を左から順に一秒ぐらいの間隔を置いて、見ていくとします。
 最後まで行ったら、また元に戻って縦線を一秒ぐらいの間隔を置いて見ていきます。
 これを二三度繰り返すと縦線は上端がそろって見えるようになります。
 これは一つ一つの縦線を注意深く見ていくと、それぞれの縦線の上端の位置は同じなのですから、視線は同じ高さに向けられていたわけですから、視線の動きが無意識のうちに記憶されていて、その結果上端の位置がそろって見えるようになるためです。
 目の動きを意識的にコントロールして注視していくと、その記憶が残っていて、六個の縦線を同時に見たとき上端がそろって見えるようになるのです。

 これ以外にも、目の力を抜いて六本の縦線全体に注意を向けて見ると、上端部分の高さはそろって見えるようになります。
 この場合は視線を動かさないで見るので、縦線の上端の位置はありのままに見えるようになるのです。
 同じことを、Bを使ってやれば、四角が赤線なので、縦線に中位を向けて見ることが容易で、縦線が整列していること見やすくなります。

 
 C図はA図をちょうど90度回転したものですが、今度は四角形の中にある直線は水平になります。
 六個の横線の左端はそろっているのですが、なかなかソウは見えません。
 A図のときと同じように見ていっても、なかなか左端がそろって見えるようにはなりません。
 目は左右に二つついているため、横視野は広いのですが、縦の視野は横の場合と比べ狭いのです。
 そこで、六個の直線を同時に見ようとしても、視野が狭いためよく見えないので、つい視線を動かしてしまうためです。
 そこで、縦に順に横線を注視していくという、意識的な目の運動をしてから、目を見開いたうえで、縦の視野を広げてみると、だんだん左端がそろって見えるようになります。
 目の力を抜いて全体を見ようとするときも、目を見開いて縦の視野を広げておかないと全体が見えなくなり、つい視線動かしてしまいます。
 日本語の本は多くが縦書きなので、縦の視野を広げる習慣をつけないと、読みにくく疲れやすいのです。


漢字の字源と字形

2008-10-30 23:24:03 | 言葉と文字

  漢字を新字体にしたため語源がわからなくなってしまっているという批判があります。
 たとえば「臭」という字は、「自」は鼻をあらわしていて、その下の「大」は、もとは「犬」という字で、「犬がよく鼻で臭いをかぐ」ということでできたものなので、これを「大」にしたのでは意味がわからなくなってしまうといいます。
 しかし、日本語の「ニオイ」とか「カグ」という言葉には、「鼻」とか「犬」という意味は含まれていないので、日本人にとっては「臭」という漢字に「鼻」や「犬」が含まれていなくても困りません。
 「自」が鼻をあらわしているというなら、「自」と「大」で、「鼻を大きくして臭いをかぐ」というふうに説明を作ってもそれなりに、説得力があり記憶もしやすいといえます。
 
 「突然」の「突」も、元の字は、上が「穴」で。下が「犬」であって、「犬が穴から突然とび出す」ということからできたもので、「犬」を「大」に変えてはいけないといいます。
 点をひとつ少なくしただけで字形を崩してしまうのは、乱暴といえば乱暴ですが、漢字を知らないヒトが覚える場合は、さして不都合ではありません。
 日本語でも英語でも「いきなり」「だしぬけ」という言葉に、「穴」とか「犬」というイメージが連想されると言うわけではありません。
 単に字を覚えやすく説明しようというなら、「突然、穴が大きくあいた」という風に覚えてもよいので、「犬」が「大」に変わっても困りません。
 また「体」という字は、元の漢字は「體」で、「骨がつらなる」ということからできたというのですが、俗字と言われる「体」という字なら、「ヒトのモトが体である」とでもいえば、この字のほうがわかりやすく覚えやすいので便利です。

 日本人が創った「躾」「働」「辻」といったような字は、元の字がないので、本来なら嘘字ということになるのですが、日本では定着していて日本人には違和感がありません。
 「体の動き(作法)をよくする」ので「躾」、ハタラキは「人が動く」、道が十字型に交差している「辻」という具合に、「判じ物」的に作られているものが多いので、なにかテキトーな感じがします。
 中国の漢字にしても、字源を見るとテキトーなものが多く、時代とともに変化しているものもありますから、なにがなんでも古い字体を正統としてこだわり続ける必要はありません。
 旧字体で育った人は、それになじんでいるので、新字体を見ると見苦しく感じられるのでしょうが、新字体になってから覚えた人にとっては、新字体が当たり前で不都合には感じないのです。
 

 
 


ローマ字読みと読みの速さ

2008-10-28 23:54:05 | 言葉と文字

 図の左側は英語、右側がイタリア語ですが、イタリア語は日本人のローマ字読みにちかいものです。
 アルファベットは表音文字といわれますが、同じようにアルファベットを使っていても、綴りと読みの関係がほぼ規則的なものとソウでないものがあり、英語に比べるとイタリア語のほうが表音的です。
 そのせいか、音読をするときはイタリア人のほうがイギリス人よりはるかにスピードが速いという研究があります。
 イタリア人のほうがイギリス人より音読スピードが速いのが、文字綴りのせいかどうかは、しゃべっているときのスピード自体がイタリア人のほうが速いようなので、なんとも言えませんが、綴りと発音の対応が規則的なほうが音読しやすいのは確かです。
 
 ところが音読でなくて、黙読のほうはどうかというと、速読術のようなものができたのはアメリカが最初で、流行しているのもアメリカガ一番です。
 音読というのは文字を音声に変換する作業ですが、黙読は文字綴りを音声に変換する必要がなく、むしろ音声に変換しないですめばその方が能率的です、
 速読といえば、日本語のほうが英語よりしやすいと考えられ、その理由は漢字が表意文字だからという説明がされますが、速読術の発祥がアメリカであることから考えれば、そうした説明は思いつきに過ぎないことがわかります。
 日本人が読んだ場合は、英語よりも日本語がはるかに速く読めるのは当然で、漢字が表音文字だからだというためなのかどうかわかりません。

 英語の綴りは、表音文字とはいいながら非常に不規則で、英語圏の人にとっても難しく厄介で、失読症の人の割合もイタリアなどに比べると、その割合がかなり多いそうです。
 日本の場合はカナと漢字を使っていて、カナを覚えるのは楽ですが、漢字を覚えるのは楽ではありません。
 カナを覚えれば、漢字にふり仮名という手段もあって、意味がわからなくてもとにかく音読することはできます。
 そのため。日本は文盲率が非常に低いといわれるのですが、漢字を理解している度合いをも考えると、とくに識字率が高いといえるかどうか疑問です。

 日本語は漢字かな混じり文となっていて、カナだけでは非常に読みにくく、漢字が加わることで読みやすくなっているのですが、漢字を覚えるのは記憶に負担がかかり、長年の学習によっても読み間違いが多いという原因となっています。
 「漢字の読み方」のような本がいくつもあるというのは、日本人にとっても漢字の習得が容易でないことを示しています。
 漢字が読みにくいというのは漢字文化圏でも日本特有の現象ですが、これは訓読をしていることだけでなく、音読みも呉音、漢音、唐音、現代音などいくつもの読み方をのこしたままになっていて、さらに当て読みも加わって、混乱しています。

 英語も日本語も文字が読みにくいというのは、古い時代には文化的後進国だったために、外国語を大幅に取り入れざるを得なかったためです。
 文字と発音の関係が複雑で、混乱しているのですが、そのためかえって、どのように読むのかわからなくても意味がわかればよいという、黙読が発達する原因となったのかもしれないのです。


注意と枠組み効果

2008-10-25 23:36:43 | 視角と判断

 横に並んだ三角の中にある小さな円は、水平線上にあり、しかも等間隔に並んでいるのですが、そのように整然と並んでいるようには見えません。
 小円を囲んでいる三角形がランダムに配置されいるために、その影響を受けて小円のほうも、位置や間隔がランダムに見えるもので、心理学で枠組み効果というふうに呼ばれているものです。
 図では枠組みの色を変えて三種類の表示をしていますが、同じ図形でも色の違いで見え方に違いがあるのがわかります。
 一番上の行は小円と枠組みの線の色を同じにしたもので、この場合がもっとも錯視効果が大きくなっています。

 小円が水平に等間隔に並んでいることを確かめようとして、小さな円に注意を向けてみても、枠となっている三角形が目に入るために、どうしてもその影響を受けてしまうのです。
 円と三角形とが同色だと、円と三角形を切り離して、円にのみ注意を向けるということが難しくなります。
 じっさい、二行目の枠組みが赤になると、円と枠組みの色が違うために、円にもっぱら注意を向けることができるようになるので、一番上の行の場合にくらべ、水平で等間隔に見えやすくなります。

 二番目の場合は枠組みの線の色が赤なので、黒い小さな円と違いがハッキリしているため、枠組みから切り離して円にのみ注意を向けやすく、その結果錯視効果が少なくなっているのです。
 ただし、この場合は枠組みの赤の色が強いインパクトを持っているので、目に強く訴えかけるため、これを無視して円にのみ注意を向けるのが困難です。
 そこで、三番目の行では色を弱くして黄土色にしています。
 こうすると円と枠組みの色が違って区別しやすいだけでなく、枠組みの色が弱いので、干渉力が弱く、円にのみ注意を向けやすくなっています。
 そのため、この場合はあまり注意を強く集中しなくても、小円は水平に等間隔に見ることができます。

 このように枠組みの色を変えれば見え方が変わるのですから、注意の向け方とか、集中の度合いによっても見え方が変わるだろうと予測することができます。
 たとえば一番上の、枠の線の色が同色の黒の場合でも、注意の向け方によって錯視の度合いは違います。
 じっさいに5個の小円に注意を集中してみると、小円は水平で等間隔に見えるようになるのですが、この場合狭い範囲に注意を集中していてはだめで、五つの小円のすべてに同時に注意を向けてみる必要があります。
 ところが五つの円のすべてに注意を向けてみようとしても、そのことを意識しすぎると、つい狭い範囲を見てしまい、すべての小円に注意を向けることができなくなり、枠組み効果にとらわれてしまいます。
 力を抜いて5個の小円全体を眺めることができるようにすれば、5個の点は水平に等間隔に見えるようになります。

 また、枠組みの三角形でなく、三角形の外側の地の部分に注意を向けると、三角形の穴が開いていて、穴の向こうの底の部分に小円があるように見え、水平に等間隔にならんでいるように見えます。
 こうしたことから、意識をしないでありのままに見ればよいのだというわけにはいかないことに気がつきます。
 錯視というと左脳で見ていることが原因のように感じますが、じっさいは小円に注意を向けたほうがよいのですから、左脳で見たほうが錯視から逃れられる場合もあるのです。

 


旧仮名遣いの振り仮名

2008-10-23 23:54:13 | 言葉と文字

 戦前の本にはふり仮名を振ったものが多く、難しい漢字を使っていて、意味がわからなくても読むことだけはできたといいます。
 ふり仮名があるため読み方を自然に覚えたというのですが、ふり仮名はもちろん、旧仮名遣いで、発音を表しているわけではありません。
 たとえば「六法」という単語なら「ろくはふ」あるいは「ろくぱふ」で、実際の読みの「ロッポウ」とはかなり違います。
 「ロくホウ」と読む場合も表記は「ろくはふ」ですから、「ろくはふ」とふり仮名があっても「ロクホウ」と読むのか「ろっぽう」と読むのかわかりません。
 辞書では「ロッポウ」と読ませる場合は「ろくぱふ」とするのですが、むかしは半濁点というものはなかったので、いわゆる歴史的仮名遣い的に表すなら「ろくはふ」です。
 「ハッピ」の場合は辞書を引くと、「はふひ(法被)」または「はんぴ(半被)」のとして、「はふぴ」という表記はありません。
 半濁音はつけてしまうという原則があるわけではないようです。

 「ロッポウ」を「ろくはふ」としたり「ろくぱふ」としたりする一方、「左右」ナドハ「サウ」とも「ソウ」とも読むのに、旧仮名遣いでは「さう」と書くのでどちらの読みかわかりません。
 これは「若人」を「ワコウド」とも「ワカウド」とも読むのに、旧仮名遣いでは「わかうど」という表記で、どちらにも読めます。
 発音が変化しても、元の発音も残っているとき表記を元のままにしようとすると、どちらの発音を示しているのかわからなくなるのです。
 「酔う」という単語も、辞書を引くと旧仮名遣いでは「よふ」ですが、「酔ふ」とかいてあるときは「えふ」で読みは「エウ」となっていて「酔(よ)う」の古語だとしていてわかりにくくなっています。
 現代でも「酔い狂う」を「エイクルウ」とも「ヨイクルウ」ともいうので、「エウ」という語が「ヨウ」と変化したのに、変化前のものが残ってしまっているのです。
 
 「六甲山」を旧仮名遣いでは「ろっかふさん」とせず「ろくかふさん」としている」と一方で、「八甲田山」は「はちかふださん」とせずに「はっかふださん」としています。
 「八」には「ハチ」という読みと「ハツ」があるのに「六」には「ロク」という読みはあっても「ろつ」という読みはないためのようです。
 ところが「石鹸」の場合は「セキケン」ですが、「切手」は旧仮名遣いでも「キツテ」デあって「キリテ」ではありません。
 音読のときは一つ一つの漢字の読みどおりにして、「切手」のように訓読の場合は「キッテ」という全体の読みにしたがっています。
 「刺客」はふつう「シカク」と読みますが、「セッカク」とも読みます。
 「セッカク」と読ませる場合は、旧仮名遣いでは「セキカク」と表記するのですが、これは「刺」が「セキ」とも読むためです。
 そこで「天皇」のように誰でも「テンノウ」と迷わず読んでいるため、かながきでも「てんのう」ではないかとつい思うのですが、旧仮名遣いでは「てんわう」です。
 「天」「皇」をひとつづつ音読すると「テン」「コウ(オウ)」ですが、旧仮名遣いでは「クワウ」あるいは「ワウ」ですから、「テンワウ」としているのです。

 こういう具合ですから、旧仮名遣いは、単語の現代の発音をあらわしているのではなく、ムカシの発音を表しています。
 したがって、現代の発音とはかなりずれがある場合があるわけで、極端に言えば旧仮名遣いでふり仮名をしてあっても、これにさらに読み仮名を振らねばならないばあいがあるとさえいえます。
「テンワウ」を「てんのう」と読めるためには、個々のカナの読み方を知っているだけではだめで、「テンノウ」という読み方と「天皇」という言葉を知らなくてはならないのです。
 旧仮名遣いというのは、文字知識が豊富な人のためのものであって、子供や外国人のように、日本語をこれから覚えようとする人にとってはムズカシク、使いにくいものなのです。