60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」

2008-10-22 00:09:01 | 言葉と文字

 稲妻に振り仮名をする場合、現代仮名遣いでは「いなずま」ですが、旧仮名遣いでは「いなづま」です。
 妻は「つま」なので、濁音にしたら「ずま」ではなくて「づま」にすべきだと旧仮名遣い支持者は言うのですが、もっともな意見だと思うでしょう。
 東の場合も、語源的には吾妻なので、「あずま」ではなく「あづま」とすべきだということになります。
 これらの場合は「つま」の濁音だから「づま」なのだということで、至極当然のようにかんじますが、「つ」の濁音を「づ」とすることには問題があります。
 日本語の「たちつてと」は「た て と」は「ta te to」で舌が上歯につきますが、「ち つ」は「chi tsu」でつかないので、同じ系統の音ではありません。
 「ta te to」が「da de do」に対応するとすれば、「ti tu」に対応するのが「di du」ですが、これらの音は今の日本語にはないことになっています。
 したがって「ち つ」の濁音を「ぢ づ」であらわしたとしても、「た」行の濁音の仲間というわけではありません。

 大豆のカナ表記は現代仮名遣いでは「だいず」としていますが、旧仮名遣いでは「だいづ」です。
 これは「豆」が「豆腐」のように漢音では「とうふ」と読むので「豆」の部分は「た」行の発音だと考え、「だいづ」としているのです。
 頭脳や図形も旧仮名遣いでは「づ」としているのは、呉音が「図書(としょ)、頭部(とうぶ)」のように「た」行の発音なので、「ず」でなく「づ」としているのです。
 旧仮名遣いに慣れている人なら、図形のふりがなに「ずけい」、頭脳のふり仮名に「ずのう」とあれば抵抗があるかもしれませんが、普通の人は見過ごしてしまうだけでなく「づけい」「づのう」とあると抵抗を感じる人もいます。
 頭脳や図形はまだしも重大とか定規を「ぢゅうだい」「ぢょうぎ(ぢゃうぎ)」とふり仮名をすれば抵抗を感じる人のほうが多いのではないでしょうか。

 日本語の「し」は「さしすせそ」と「さ」行の中に入れていますが、発音は「si」でなく「shi」で、「じ」は「si」に対応する「zi」ではありません。
 「じ ぢ」「ず づ」は「かきくけこ kakikukeko」が「がぎぐげご gagigugego」二対応するように整然としていないので紛らわしくなっています。
 旧仮名遣いの方式が論理的なように見えていながら、実用的には新仮名遣いが定着してしまっているのは、本当に論理的であるわけではないからと、これらの例では漢字で表記されているので、カナ表記が隠れてしまっているためでもあります。
 漢字が意味の部分をあらわしているので、ふり仮名をしても、ふり仮名は発音をあらわせばよいのでそれ以上の機能を必要としないためです。
 大部分の人にとっては見慣れた新仮名遣いのほうが抵抗がなく、旧仮名遣いのほうは読みにくく感じるのです。
 
 「寺」は「ぢ」でなく「じ」と旧仮名遣いでは表示しますが、それでは「持参」はどう表示するかというと「ぢさん」と旧仮名遣いでは表示されます。
 音を表す部分が「寺」だから「じ」と表記するとは限らず、「ぢ」と表記しているのですが、「侍従」の場合なら「じじゅう」と「じ」です。
 このように文字面からかな表記を決めようとしても、うまくいかない例もあるのですが、濁点の問題は厄介です。
 むかしは濁点とか半濁点がなかったので、もっと紛らわしかった可能性があります。
 たとえば「頭巾」は本来なら「つきん」とすべきだったのでしょうが「すきん」と書いている例があるように、ハッキリした規範の意識はなかったのです。


話し言葉と書き言葉

2008-10-18 23:13:24 | 言葉と文字

 話し言葉と書き言葉といえば、口語体と文語体を思い浮かべますが、日本語の場合は単語レベルでの違いがあります。
 日本語は、言語体系の違う中国から漢字という表意文字を輸入したので、話し言葉とは別次元の言葉が沢山あります。
 新しい言葉を作るとき、たとえば日本語で遠くを見る道具を「とおめがね」とするところを、漢字では「望遠鏡」という具合に、漢字を組み合わせて作り上げています。
 「ぼう」とか「えん」「きょう」は漢字の読みで、それぞれは日本語の話し言葉ではありません。
 「望遠鏡」という言葉が作られれば、これは文字言葉ですから、「ぼうえんきょう」と読んでも、「とおめがね」と読んでもよく、音声言葉としては不安定です。
 話し言葉とは関係なく、漢字を組み合わせて新しく言葉を作れるので、たくさんの同音異義語のような、話し言葉では考えられないような現象が起きています。
 たとえば「こうせい」と読む単語は、構成、校正、公正、攻勢、厚生、後世その他で、広辞苑でみても30種類ほどあります。

 「こうせい」という単語を音声で聞いてもどんな意味かわからないのですが、漢字を見ればわかるのは、話し言葉と関係なく、意味から考えて、漢字の組み合わせで言葉を作ったからです。
 「日本語は言葉を聴いて漢字を思い浮かべるようになっている」というようなことがいわれるのですが、もともと日本語がそうだということではなく、文字の組み合わせで単語を大量に作ったからです(特に明治以後)。
 当然、文字の組み合わせでできた言葉なので、聞いただけでは意味がわからなかったり、同音語が多くて紛らわしかったりします。
 たとえば「しりつ」という言葉は、昔はなかった言葉なので、意味を伝えようとすれば「私立」を「わたくしりつ」というように言い直したりするのです。
 漢字の知識を多く持っている人は、「幹事」を「みきかんじ」、「監事」を「さらかんじ」などと言い分けて、漢字を思い出させれば意味が通ずるなどといいます。
 漢字知識があまりなければ、「みきかんじ」「さらかんじ」などといわれても何のことやらわかりませんから、漢字の組み合わせによる造語は話し言葉とは遊離しているものなのだということがわかりますの。

 話し言葉とは関係なく、漢字の組み合わせで言葉が作られれば、単語の読み間違いが当然多くなります。
 「消耗」の読みは「しょうもう」でなく「しょうこう」が正しいといっても、「こう」は話し言葉ではないので、「しょうもう」と読まれていいるのを聞いてもオカシイとは感じない人が多いのです。
 「言質」が」げんち」と読まなければなららいといっても、普通の人の感覚では「げんしつ」でどこが悪いのかわかりません。
 「相殺」を「そうさつ」と読めば百姓読みなどといって、軽蔑されたりしますが。「そうさつ」と読んでも文字は同じなので意味は通じているのです。
 漢字の読み自体は、中国から伝わってきたときの経路とか時代によって違い、しかも中国の原音でなく日本風になまったものですから、ドレを正当とすべきかわからないところがあります。

 それとは逆に、もともと日本語にある言葉を、なんでも漢字に直すようになると、別の言葉なのに漢字で意訳すると同じ感じになってしまうものも多くあります。
 たとえば「またたき」と「まばたき」は共通の意味もあるので、漢字で書くと「瞬き」となります。
 「またたき」は「まばたき」と共通の意味をもっているのですが、「星がまたたく」とは言っても「星がまばたく」とは言わないので、同じ言葉だというわけにはいきません。
 「数学の問題をとく」といっても「問題をほどく」とはいいませんが、漢字ではどちらも同じ「解く」です。
 「へそ」は漢字で書くと「臍」ですが「ほぞ」も「臍」です。
 「へそ」も「ほぞ」も元の意味は同じですが「臍を固める」は「ほぞをかためる」と読まないと意味がわかりません。
 漢字を当てればかえって紛らわしいこともあるのは、話し言葉に(文字と関係なくできた言葉)に無理に漢字を当てるからです。
 なんでも漢字で表そうとすると、極端な場合は、「目出度い」「出鱈目」のように漢字にすると意味がまったく不明になってしまう場合さえもあるのです。
 


加齢と意識的な反応速度

2008-10-16 22:40:05 | 視角と判断

 図は反応速度を調べるためのもので、Homeのところにマウスポインタをおき、上の5個の円のいずれかが黄色く点灯したら、その円をクリックして、点灯からクリックまでの時間を計ります。
 反応速度と知能指数が関係するという実験結果もあるそうですが、具体的に同関係するのかはわかりません。
 ただし年をとってくると反応速度が遅くなるので、加齢とは関係があります。
 五個の円のどれかが点灯したとき、Homeのところでマウスをクリックするのであれば、どこに点灯されても時間は変わりませんが、点灯した円をクリックする場合は、点灯した場所を判断しなければならないので、課題が難しくなり、高齢者と若者ではさらに差がつくそうです。
 
 反応速度を量るには一回の試行ではなく、何回もやって平均をとるのですが、速く反応しようとすると、間違ったところをクリックしてしまうということも起きてきます。
 ゆっくりやれば間違えようがないのですが、速くクリックしようと意識するとプレッシャーがかかり、エラーが起こりやすくなるのです。
 ふつうは各試行の間があくのですが、円がごく短時間だけ点灯して消えて、つぎにどこかの円が点灯される前にクリックしなければならないようにすると、さらにハッキリとタイムプレッシャーがかかるので、間違いやすくなります。
 いわゆるモグラたたきのようなものですが、円が点灯して消えるまでの時間が短くなるにつれ、エラーがおきやすくなりますが、これは判断速度だけの問題ではありません。

 マウスを点灯した円のところへ動かしてクリックしようと意識したとき、その0.5秒前に大脳の準備電位というのが発生するそうですから、マウスを動かそうと意識したときは円が点灯してから少なくとも0.5秒以上たっていることになります。
 したがって円が点灯してから、脳にその信号が伝わる間での時間と、マウスを動かし始めてクリックするまでの時間を合わせれば、意識される前の0.5秒との合計は1秒近くになるはずです。
 そうすると円が点灯してから1秒以内に消えてしまうと、円が点灯している間にこれをクリックすることはできないということになります。
 実際に円の点灯位置をランダムに動かして、1秒以内に消えるようにすると、円をクリックするのが極端に難しくなります。
 
 それでは点灯してから1秒以内に消える場合は、点灯した円をクリックできないかというと必ずしもそうではありません。
 円が点灯したのを見て、その場所にマウスを移動してクリックしようと意識していては間に合わないのですから、意識しないで手が動くようになればよいのです。
 野球のボールを打つときに、球を見て意識してバットを振っていては間に合わないので、練習を繰り返して意識しないでバットが振れるようにするのと同じことです。
 テレビゲームをやっているとき脳が活動していないように見えるというのも、意識的に反応していないだけの可能性があります。
 
 この場合も、意識的にマウスを動かそうとしないでも手が動くようになれば、エラーはなくなるのでしょうが、意識的にマウスを動かそうとしている段階では、エラーが多発します。
 クリックしたときにはすでに消えて別の円が点灯されていることになり、そこに移動してクリックすると、またその円も消えてしまっているというので、パニックに陥ってエラーが多発してしまうということになります。
 年をとってくればどうしても体で覚えるのが難しくなり、反応速度が遅くなる上に、意識的な動きをしようとするので、タイムプレッシャーがかかり、エラーが起こりやすくなるのです。


視覚判断とタイムプレッシャー

2008-10-14 22:39:48 | 視角と判断

 ストループテストというのは、色インクで書かれた色名を答えるとき、インクの色が名前とちがっていると、答えが遅れたり書かれている文字を読んでしまったりする現象です。
 たとえば青い字で「赤」と書いてあるのを、「青」と答えるべきなのに、つい「赤」と文字を読んでしまったりするのです。
 これは文字を読むということが自動化されているため、文字の色と文字とが違っているとき、つい文字を読んでしまうためとされています。
 つい文字を読んでしまうという自動的な行動を抑えて、文字の色名を答えるために、意識的な力が必要なので、前頭葉がはたらくということで、この作業が前頭葉を鍛える訓練になるかのように思う人もいます。
 ほんとうに前頭葉のはたらきを高める効果があるかどうかはわかりませんが、このテストをするとき前頭葉が働くので、効果があると決め込んでいるのです。

 上の図はストループテストの逆のテストです。
 画面の上に赤または青の円が表示されたとき、青い円なら青と書かれたボタン、赤い円なら赤と書かれたボタンを押します。
 円は左または右または中央にランダムに表示されるのですが、ボタンには文字が書かれているので、文字読みが自動化され優先するならば、円がどの位置に表示されてもスムーズに正解ボタンを押すことができると予測されます。
 ところが円が表示されてからボタンを押すまでの時間を計ると、ボタンと同じ位置に表示された場合がもっとも時間が少なく、反対側に表示された場合がもっとも多くなります。
 また、つい押し間違えるというのも、色とボタンの位置が同じ場合は少なく、違う場合が多くなります。
 
 ストループテストと違って、この場合は声で答えるのではなく。ボタンを押すことによって答えるのですが、ボタンの位置が干渉して、答えを遅らせたり、間違えさせたリすtるのです。
 この場合はボタンに赤とか青という文字を書いているので、言葉と関係がありそうに見えますが、実は文字がついていなくて、単に赤のときは左、青のときは右のボタンを押すということにしていても同じ結果が得られます。
 つまり文字がなくても、ボタンと円の位置が同じか違うかという、位置関係によってもストループ効果と同じような現象がおきるのです。

 このテストは、簡単な課題ですから楽にできそうなものですが、答えを出すのにつっかかったり、間違えたりするのは、この課題が難しいからではありません。
 これは答える時間を計るので、回答する人にはタイムプレッシャーというものがかかります。
 速く答えようとするため、プレッシャーがかかり、エラーを起こしやすくなり、判断がスムースにできなくなるのです。
 したがって何回も練習して慣れれば、タイムプレッシャーがかかりにくくなり、そのことによる成績の向上もありえます。
 しかし、そのことで前頭葉の機能が高まったと期待できるどうかは分かりません。

 似たような課題で、子供にゴム球をもたせ、ランプを点灯して赤ならゴム球を握り、黄色なら握らないというテストで、前頭葉の発達を評価するというのがありました。
 このテストでは最近の子供のほうが、以前より誤答率が多く、また中国の子供より成績が悪かったということです(10年ほど前のことですが)。
 これは子供がゲームなどをするようになったので、前頭葉がはたらきが悪くなった証拠のように考えられたようですが、そんなことはなかろうと思います。
 それはこういう課題に対し、最近の子供がついタイムプレッシャーを感じやすいということなのではないかと思われます。
 ゴム球を握るテストは速く答える必要はないというものなのですが、ゲームなどをするようになって、つい速く答えようと、みずからタイムプレッシャーを書けるクセが、昔の子供より顕著になっている可能性があります。
 


語源の合理性

2008-10-11 23:35:27 | 言葉と文字

 「うどの大木」は、うどが大きくなってしまうと食用にならないで、茎は材木にするにはやわらかくて役に立たない→「体ばかり大きいが役に立たない」という意味だと説明されています。
 田井信行「日本語の語源」によると、こういう説明では納得できないとして、これは「うろの大木」が変化したものなのだとしています。
 樹木の空洞を「うろ」といい、これが発音強化されて「うど」になったというのです。
 そういわれてみれば、独活は多年草で樹木ではないので、2メートルぐらいまで成長するといっても大木というのは不適切な表現です。
 秋田の蕗なども成長すると2メートルぐらいになるそうですが、大木とはいわないようですから、独活の生長したものを大木とは表現しないでしょう。
 
 これは「ろ」という音が「ど」に変わったという説ですが、「ど」が「ろ」に変わるという例はあります。
 福岡市にある「かろのうろん」という、うどん屋の屋号は「角の饂飩」ということで、「かどのうどん」の「ど」が「ろ」にかわった例です。
 田井説が正しいかどうかはわかりませんが、木のうろを「うとー」と発音する地方もあるそうですから、「ろ」が「ど」に変わったという可能性があるかもしれません。
 実際はどうかは別として、説明としては一般に言われているものより、田井説のほうが合理性があります。

 それでは合理的であればそれが正しいのかといえば、必ずしもそうはいえません。
 たとえば「かたむく」という言葉の語源は「片+向く」だという風に辞書に載っていて、一見理にかなった説明のようですが、「かたむく」のもとの形は「かたぶく」ですから困ったことになります。
 「かた」はよいとしても「ぶく」は「向く」だとはいいがたいので、「ぶく」とはどんな意味なのかということが未解決になります。
 また「蝙蝠」は古語としては「かはほり」あるいは「かはぼり」ですが、田井説では「蚊+屠る(ほふる)」で、屠るは古くは「はふる」ですから、「蚊+はふる」が変化して「かはほり」となったとしています。
 蝙蝠は「蚊食い鳥」と呼ばれることもあるように、蚊を屠るという意味につながるので、「かはほり」と呼ばれたというわけです。
 別の説では蝙蝠は「かわもり」つまり川守とよばれたことから、「こうもり」と発音されるようになり、「かうもり」と表記されるようになったといいます。
 この説では「川守」の前が「かはほり」であったことが説明できないのですが、「かうもり」という旧仮名遣い表記から説明しようとしたのかもしれません。

 語源に注意が向くのは、聞いた語感と意味とにずれがあるからですが、ずれの原因は意味自体が変化する場合もありますが、発音の変化による場合がかなりあります。
 そこで発音が変化したからといって、文字表記を変えなければ元の意味が維持されるはずだという考えが生まれます。
 旧仮名遣いを維持したいと考える人は、発音が変化しても元の表記のままにすべきだというのですが、その元の表記自体が変化したものもあるので理屈どおりにはいきません。
 たとえば「幸い」は旧仮名遣いでは「さいはひ」ですが、もとは「さきはひ」ですから、文字表記を変えないというなら「さきはひ」と表記して「さいわい」と読ませるべきだということになります。
 「狭し」はもとは「せばし」ですから「せばし」と書いて「せまし」と読むということになります。
 扇は「あふぎ」がもとの表記だから、「おうぎ」と書かず、「あふぎ」と書くべきだというなら,蝙蝠も「かはほり」と書いて「こうもり」と読むべきだということになりかねません。
 言葉の意味や表記が語源からずれてしまっているからといって、元の意味や形を維持することには無理があるのです。


語源意識で混乱

2008-10-09 22:05:30 | 言葉と文字

「うなずく」の語源は「うなじ(項)+突く」で「うなじつく」が「うなづく」となったので、「うなずく」と書いたのでは語源がわからなくなるいう説があります。
 これは。新仮名遣いが「ち」「つ」の濁音が「し」「す」の濁音と発音が同じだからと、「ぢ」「づ」と書くべきところを「じ」「ず」と書いてしまうので不都合である、という例として挙げられる代表例です。
 「うなずく」は「うなじ突く」だから、「うなづく」と書かなければいけないと言われれば、なるほどそうかと、つい「うなづいて」しまいます。
 しかし、なんとなくヘンな感じがするのは、「うなじ」というのは首の後ろの部分ですから、「うなづく」というのは、図のように後ろから誰かが何かで突くということになります。

 ふつう「頷く」といえば、誰かほかの人のうなじを突くという意味ではありません。
 すくなくとも、頷く人が自分で首を縦に振ることで、後ろから突かれることではありません。
 普通の人は語源意識を持たないので、「うなずく」と書かれていれば、すぐに意味がわかるのですが、「項突く」あるいは「うな突く」などというのを見れば、一瞬戸惑うのではないでしょうか。
 語源は「うなじ突く」かもしれませんが、そのことを意識することが意味の理解を助けるとはいえません。
 
 同じように、「つまずく」も、語源は「つま(爪)突く」だから、「つまづく」と書くべきだといわれますが、これもいまでは紛らわしい表現です。
 「爪突く」という表現を見れば、手の指先で何かを突くように感じられ、足の指先というふうに感じないのではないでしょうか。
 「突き指」をするのも、足の場合もあるかもしれませんが、手のほうが一般的です。
 「足の先が何かに当たってバランスをくずす」という意味だとされれば、そういえばそういう風にも取れるという程度です。
 「つまずく」とかかれてあれば、足のことだと誰でもすぐにわかります。
 手の指で突くとか突き指をするなどと感じることはないでしょう。

 また「いなずま」にしても「稲のつま」だから、「いなづま」と書かなければ意味がわからないともよく言われます。
 稲の結実の時期にイナズマが多いので、「稲のつま(夫)」ということで「稲妻」という言葉ができたというのです。
 ところが漢字ではふつう「稲妻」と書いて「稲夫」とは書きません。
 結実する稲のほうが妻なら、イナズマのほうは夫でなければならないので、稲夫と書かなければ意味がおかしくなってしまいます。
 「稲のつま」だから「いなづま」だと聞けば、「夫」だと思わず「妻」と書いてしまうのは、意味を考えずに書いてしまっているのですから、この場合、語源意識は有効に働いていないのです。

 例は違いますが、「キサマ」という言葉を、語源は「貴様」だということわざわざ持ち出せば、それはそうかもしれないが何の冗談だと動機が疑われます。
 「キサマ」といわれれば、語源とは関係なく普通の人は腹を立てるので、「いや、そんなつもりはないんだ、語源的には」などといっても通用しません。
 日常使われる言葉は、聞けば意味が直ちにわかるので、語源などを持ち出すと意味がおかしくなりかえって混乱するものなのです。


字源解釈と記憶補助

2008-10-07 22:36:34 | 文字を読む

 「件」は音読みでは「ケン」、訓読みでは「くだん」ですが、文字の形が「人」と「牛」でできているので、なぜこのよう漢字が作られたか不思議に思われます。
 「件」という字は「ものや事柄をかぞえることば」で、訓読みの「くだん」は文書などでは「前述した事柄」の意味です。
 それではなぜ「人」と「牛」と書くのかというと、漢和辞典を引くと「物の代表としての牛と、牛を引く人」などとあってなんだか要領を得ません。
 そのせいかどうか、「くだん」は「顔が人間で体が牛の化け物で、人語を解し流行病や戦争など重要なことを予言し、いうことが常に当たっている」ので、「よって件の如し」という風に使われる。
 というような説が九州や中国地方で広まっていたそうです。
 
 「くだん」という言葉自体はこのような説が現れるより数百年前からありますから、この説は後から考えられたもので、漢字遊びの一種でしょう。
 「人」と「牛」から、人面獣身(人面牛身)と考えてしまうところがユニークな解釈で、普通なら顔が牛で体が人と考えそうなものです。
 顔が牛で体が人だと、地獄の獄卒で牛頭、馬頭というのが昔からあるため、それとは違うということで体が牛で、顔が人という怪物を考え付いたのかもしれません。
 この漢字そのものは中国で生まれたものですから、中国でそのような怪物が考えられていたかというとそういうことはありません。
 そのうえ「くだん」は訓読みですから、人面牛身というのは、日本で創作した落語的字源解釈のようですが、案外まじめに受け取る人もいるようですから面白いものです。

 人と動物を組み合わせた漢字というのは「件」だけではなく、漢和辞典で調べれば「伏、佯、偽、像、、他」などがあります。
 これらを「件」の「人面獣身」式で解釈すれば、「伏」の場合は体が犬で顔が人といくところですが、里美八犬伝の伏姫は犬の精を受けて八犬士を生むというので別として、「佯」は「いつわる」という名前の体が羊で、顔が人間のうそばかりいう怪物だということになります。
 「偽」は旧字体が「僞」で「爲」は鼻の長い「象」の象形文字だということですから、これも体が象で顔が人の、うそばかり言う怪物だということになります。
 ところが「人」と「象」でできた「像」はどうなるかというと、これは「姿かたち」とか「形が似ている」という意味です。
 「像人」といったからといって象のような人間という意味ではなく、「人に似ている」という意味です。
 「」は体が虎で顔が人ではなく、またタイガーマスクでもなく、「チ」と読むときはどういうわけか「車輪」の意味で、「コ」と読むときは「虎」の意味です。
 「他」は「也」が「蛇あるいはさそり」で「人」+「蛇」というかたちですが、これも蛇人間の意味ではなく「ほか」という意味です。

 ようするに「人」と「動物」を組み合わせた漢字で、人と動物を肉体的に合体させた意味を表そうという発想は中国漢字にはないようです。
 「くだん」のような字源解釈は事実ではないのですが、それではこのような解釈が絶対だめなのかというと、そうとばかりはいえません。
 このような説明であれば、荒唐無稽ではあっても印象には残りますから、「件」が「くだん」とも読み、人偏に牛と書くということは強く記憶されます。
 「羊と為(ぞう)は「うそつき」だと覚えるとすぐに覚えて忘れにくいでしょう。
 漢字の字源解釈というのは多分に思いつきのようなものが多く、場当たり的で一貫性がないのですが、記憶補助ぐらいに考えればよいのかもしれません。
 


単語の構成要素と意味

2008-10-04 22:53:52 | 文字を読む
 英語の話者の場合、会話ができるのにアルファベットが読めなくなる失読症という症状があります。
 日本人の場合も脳に損傷を受けた患者が、ひらがなやカタカナが読めなくなることがあるのですが、かなは読めないのに漢字は読める場合があるといいます。
 このことから、漢字がマジカルな力を持っていると思ったり、あるいは日本人の脳が特殊であるように感じるかもしれません。
 しかし、これは初期のころの脳科学者が、漢字が文字であると同時に、単語であり一文字で意味を持っているということを考慮しないで、カナやアルファベットの一文字と同列に考えて比較してしまった結果です。

 失語症が発見された初期には、アルファベットやカナなどの表音文字がわからなくなるという例が目立ったのですが、その後研究が広がるにつれ、英語でも単語なら読めたりする例も発見されています。
 また漢字の場合でも、漢字一文字は読めても熟語になると読めないという例(たとえば花が読めても花弁となると読めないなど)がでてきています。

 たとえば漢字の「花」は単語としての構成要素に分解すると草冠に「化」で、草冠が意味の範囲を示し、「化」が「カ」という音声を示しています。
 したがって、「花」という字が読めても、もしこれらの要素をひとつずつ順に示せば、意味がわからないという可能性が高いのです。
 カナやアルファベットは一文字単位では意味がなく、文字列となったとき単語の音声を表し、その音声が示す単語の意味をあらわすということになります。
 したがって文字を十分に読み慣れていれば、文字綴りの形が単語の意味と結び付けられ、綴りを見れば意味が思い浮かぶようにもなります。
 アメリカで速読術のようなものが最初に作られたのも、読みなれれば単語を音声に変換しなくても、見るだけで瞬間的に意味が思い浮かべられるからです。

 アルファベットは音声を表すためのものであるといっても、それは文字を覚え始めのときのことで、何度も文字を読んでいれば、いちいち音声に直さなくても意味がわかるようになります。 
 また単語によっては耳で覚えるよりも先に、活字などの形で目で先に覚えるものもあります。
 英語の場合は特にギリシャ語とかラテン語、フランス語などから借り入れた単語が多く、普通の人には読み方がわからないものもありますから、文字と意味が直接結びついてしまっている場合もあります。

 日本語の場合はカナのほかに漢字を使っていて、意味の部分は漢字で書かれる場合が多くなっています。
 ところが漢字は基本的には中国のもので、外国語ですから読み違いが多発しても当然で、意味は漠然とわかっても間違った読みをしている場合があります。
 意味がわかる場合でも、熟語の場合などは全体として意味がわかっていながら、ここの漢字の意味になるとわからないという場合もあります。
 「会議」なら「会して議する」というように直解できても「銀行」「会社」「遊説」など、個々の漢字の意味を理解しないまま熟語全体として意味を理解している場合がかなりあります。
 こうした例では、単語を覚えるときも構成要素に注意を向けるとかえって記憶の負担が増すので、単語全体の意味を覚えたほうが手っ取り早いのです。
 


読書スピードと目の疲れやすさ

2008-10-02 22:52:25 | 文字を読む

 日本語は縦書きと横書きが並存していますが、これは日本特有の現象のようです。
 もともと縦書きであった中国でも現在は横書きになっているのですから、漢字を使うと縦書きでなければならないということではありません。
  ビジネス文書は数字が多く使われるので、横書きが便利なため、ほとんど横書きですが一般の書籍や新聞雑誌は縦書きがまだ主流です。
 新聞などは横書きにしたら売れなくなるので、縦書きでなければならないという人もいますが、中国では新聞が横書きになっているのですから、本当は日本の新聞が横書きであっても差支えがないのかもしれません。
 
 日本語は縦書きのほうが読みやすいか、横書きのほうが読みやすいかという場合、読む速度を比べることで判定しようとするのが一般的です。
 これまでに行われた研究では、小学生から大学生までを対象として、縦書き文と横書き文を読ませ、その読書スピードを比べることでどちらが読みやすいのかを判定しようとしています。
 普通に考えれば、目が横に二つついているので視野は横に広く、また視線の移動も横のほうがスムーズなので、横書きのほうが早く読めるのではないかと予想されます。
 しかし実際に読書スピードをはかってみると、小学生は縦書きのほうが速く、年齢が高くなるにつれ差が縮まり、大学生になると、あまり差がないという結果でした。

 これは字を教える国語の教科書が縦書きのため、縦書きに先に慣れているためで、大学生になれば横書きにも慣れてきているので、差があまり見られなくなっているものと考えられています。
 少なくとも、横書きのほうが生理的に読みやすく、その結果速く読めるというようなことではなく、慣れの問題が大きな要因になっているということのようです。
 もし、縦書きも横書きも、慣れれば読むスピードが換わらないなら、すべて横書にしてしまったほうが能率的です。
 縦書きから教えられているのに、慣れてくれば横書きの読書スピードも縦書きとほぼ同じというなら、最初から横書のみにしていれば、横書の読書スピードのほうが上回る可能性もあります。

 しかし読みやすさというのは読書スピードだけで決まるものではありません。
 どちらのほうが目が疲れないかという問題もあります。
 校正をする場合、横書のほうが疲れやすいという話がありますが、これは横書のほうが、少ししか目を動かさずに読むことができるためです。
 横書のほうが視野が広いので、目に入る文字数が多く、結果として焦点を固定した状態で読むことになり、目を少ししか動かさないで、固視に近い状態で読み、毛様態筋を緊張させやすいためだと考えられます。
 縦書きの場合は、上下に視線を動かすので、固視しなくなるのと、多くの文字を捉えようとすると、目を大きく開けるので、焦点距離が長くなるためです。

 図は縦書きの文章と横書の文章を、逆方向から書いたものと、180度回転させたものとを並べています。
 横書の場合は180度回転して逆さまにしても、文字の配列を逆にしても比較的に楽に読めます。
 縦書のほうは、逆方向からの読みに慣れていないということもありますが、たいていの人は、横書に比べ逆方法はとても読みにくいと思います。
 これは下のほうから読もうとすれば、上の方の文字が認識しにくくなり、視幅が狭くなって全体が読み取りにくくなるためです。
 横書の倍は行全体を見やすく、目をほとんど動かさないで読めますが、縦書の場合は目を動かさずには行全体を読み取りにくいのです。
 縦書の場合でも正常方向の文字並びの場合には気がつきにくいのですが、逆方向のならびになると、行全体がよく見えていないことに気がつくのです。
 読書スピードはともかく、ある程度長時間文章を読むときは縦書のほうが目は疲れにくいのです。


表音文字と表語文字

2008-09-30 23:59:39 | 言葉と文字
 アルファベットは表音文字と言われますが、文字が音を表すために使われているという意味で、文字を組み合わせた綴りは単語をあらわしますから、表語文字でもあります。
 表音文字といっても、発音記号ではないので、単語の綴りの文字と発音が厳密に対応しているわけではありません。
 単に音と文字を対応させるということであれば、アルファベットでなくてもモールス信号でも、コンピューターのコードのように、0と1で表現してもよいのです。
 英語のはドイツ語などと比べて、文字綴りと発音が一致しないものが多く、読み方を覚えるのが難しいのに、読みやすくしようという流れにはなっていないようです。
 
 たとえばclimb(クライム),Wednesday(ウェンズデイ)などのb、dは黙字で発音されません。
 よく例に挙げられるknightは、もとはkが発音されていたのが、発音が変化しnightと同じ発音になったけれども、見て区別できるように、綴りはそのまま維持されたと説明されます。
 もちろん音声では同じですから、区別できないのですが、実用的に困るということはないようです。
 それなのに、文字表示されるときは区別しなければならないという説明は何かヘンです。
 区別したいならknightをniteとでもすればハッキリ区別できたのに、そうしなかったのは文字を読みなれている人には抵抗があったからでしょう。
 
 lightなどはドイツ語では「明るい」という意味ではlicht,軽いという意味ではleichと言葉が分かれたのですが、英語の場合はlihtenという形から発音も綴りも変化したのに、同音同綴りのままです。
 あとから、ビールなどの商品用にliteが軽いという意味で作られましたが、全面的にこちらに変わるということはなく、見慣れたlightのままです。
 綴りが音声を表現することを目標としているなら、わざわざ読みにくい綴りを維持することはないのにそうしないのは、目で単語として見ているからです。
 文字を読みなれてくれば、いちいち音声に直さないで、単語を瞬間的に識別するようになりますから、綴りは必ずしも発音に忠実である必要はなくなるのです。
 
 よく漢字は見れば読まなくても意味がすぐにわかるなどといわれますが、英語でも文字を読みなれている人は、読まなくても意味がすぐにわかります。
 速読法というのはアメリカで生まれたもので、たいてい基本のところで、単語は音読せずに見て意味がわかるように訓練することになっています。
 音読のクセをやめ目で見るだけで理解する訓練をするのですから、読まなくても意味がわかるというのは、なにも漢字に限ったことではないのです。
 英語のつづりも、表音的であると同時に表語文字としての役割を持っているのです。
 見てすぐ意味がわかるというためには、同じものを何度も見慣れることが必要ですから、たとえ表音的には不合理な綴りでも、見慣れたほうがわかりやすいということになり、変化に対してはどうしても保守的になるのです。
 
 なかにはdoubt(ダウト),receipt(レシート)のように、もとは発音に近い綴りであったのに、語源のラテン語とかギリシャ語の綴りを意識して、黙字を加えてしまい発音はそのままというものもあります。
 island(アイランド)などももとはilandであったのにislandとを加えて発音はそのままです。
 indict(インダイト;告訴する)は、もとはindite(詩文を書く)が起訴をする意味を持つようになってラテン語のindictareの綴りに近づけた(英単語を知るための辞典)ものだそうです。
 このような不自然な変化は、文字を扱う学者など少数の人が、語源を意識して読みにくい綴りにしてそれが文字綴りとして定着したのでしょう。
 これらの場合は表音よりも標語的機能が優先されてしまっているのです。

漢字の記憶術と字源

2008-09-27 23:55:28 | 言葉と文字

 漢字の大部分は形声文字といって、音声を表す部分と意味を表す部分で作られているというのですが、音声部分というのは中国語のものですから、現代日本人にはわかりにくいものがかなりあります。
 たとえば「視」の読みは「シ」ですが、音を表す部分が「見」だと思うと間違いで、「ネ」が音符で、「ネ」は実は「示」で「シ」と読むことになっています。
 似たような字で「規」のほうは、音符は「夫」でなく「見」で、「ケン」→「キ」と変化したということになっています。
 一貫性がなくわかりにくいものです。
 「示」という字は「ジ」とも読み、この方が普通で「暗示」「示談」「訓示」「示現流」などいずれも「ジ」と読みます。
 しかも「示」のつく字は「礼、宗、祈、神、祝、禅、禁、祭」など音符として「シ」と読ませるものはありませんから、「視」という字面から「シ」とよむのは困難です。
 「視」には異体字で「目」+「示」で「シ」読む字がありますが、「視」の字が変則的だからこのような字が作られたのでしょう。

 「耿」という字は「コウ」と読み、音符は「火」ですが、「カ」がなぜ「コウ」となるのかわからない上に、意味は「ひかり」で耳とどう関係するのか不審で、むしろ耳の部分が目であったほうがつながりやすいように思えます。
 「鼻」はもともと「自」が象形文字で「ハナ」を表していたというのですが、それなら「ビ」ではなく「ジ」と読みそうなものです。
 ところがこれは「鼻」の「自」の下の部分が音符で、これが「ビ」と発音するというのですから、ジ(はな)という単語が姿を変えた上に「ビ」という音声に変わったというかから厄介です。
 「汪」という字は日本では「オウ」と読みますが、中国で犬の鳴き声をあらわすときは「ワン」ですし、また「往」は普通なら「シュ」と読むのですが、もともとの字は主の部分が「王」だから「オウ」と読むそうです。
 
 このように形声文字の音符が漢字理解の助けにはならないので、もっぱら連想によって漢字を解釈しようとする人もいます。
 たとえば下村昇「みんなの漢字教室」には図の左側のように「迷」という字を説明しています。
 従来の説明では「米」と「しんにょう」で「しんにょう」歩く意味で、「米」は「米粒で小さく見えにくい」あるいは「暗くて見えにくい」という意味の「メイ」で、歩こうとして迷うという意味だとしています。
 ぎこちない説明なのですが、下村説では「米」をずばり「道路」に見立て、「道が四方八方に広がっているから、どっちに行けばよいのかわからないので「迷う」のだと説明しています。
 要するに漢字のいわゆる字源にこだわらず、見た目から直感的にわかりやすい説明をつければよいのだというのです。
 
 漢字の字源説というのは諸説あって、古い時代のことであるのと同時に中国人のものの捉え方が基礎になっているので、理解しにくく、またどれが正しいかもわかりません。
 それなら実際の字源説明でなく「なるほど」と思いやすい説明にすればよいというものです。
 ところが、こうした説明は思い付きが主体となっているので、ほかの人が見ると別な解釈が可能となって具合の悪い面があります。
 「米」の部分を道路に見立てるといっても、現実の道路は八叉路というのはめったになく、多くわかれても十字路がふつうです。
 十字路に「しんにょう」は「辻」という字で、この解釈法で行くと「辻」が「まよう」という意味の漢字になってしまいます。
 また「迷」を「道に迷う」という意味に結び付けすぎると「迷惑」という日常用語の意味はわからなくなって迷ってしまいます。
 字源解釈で漢字を記憶するのはよいのですが、ほどほどということもあるのです。
 


漢字の擬声語

2008-09-26 00:06:34 | 言葉と文字

 「牛」とか「犬」は象形文字ですが、「グ(ゴ)」とか「ケン」という音声は泣き声からとったものとされています。
 つまり古代の中国では、牛や犬は「グ(ゴ)}とか、「ケン」と言う声で鳴くからそのように名づけられたということです。
 ところが、この呼び名は牛の場合は「ギュウ」となり、現代では「ニュウ」となっていて、犬は「ケン」から現代では「ツアン」と変化してきています。
 ところが鳴き声も同じように変化したのかというと、牛は「モウモウ」で、犬は「ワンワン」となって日本と似てきています。
 「モウ」は口偏に「牟」と書くので、新たに作られた漢字ですから、「モウ」という音を表すために造字されたものと思われます。

 「牟」という字は漢和辞典を引くと会意文字で、「牛+モウと声が出るさま」となっていて、牛の鳴き声をあらわすとしていますが、「もとめる、ふえる、大麦、眸(眸)」などの意味も表します。
 音はモ、ボウ、モウと変化して、牛の鳴き声を表すために作られた文字が、ほかの意味をも持つようになって、鳴き声専用の字として口偏に「牟」という字が作られたようです。
 犬のほうは現代では「ワン」と鳴くとして文字のほうは「汪」という字を使っていますが、これは単に「ワン」という音を表すために「汪」という字に同居しています。
 つまり、最初は鳴き声に似せて名前をつけたのですが、名前と鳴き声がそれぞれ変化して別物になっているのです。

 「蚊」「蛙」「猫」などは、象形文字ではなく音を表す文字を既成の単語から借り、偏をつけて意味を暗示していますが、音はやはり鳴き声からとっていて、擬声語だといいます。
 蚊は「モンモン」と羽音が聞こえるので文(モン)という字を借りて、虫偏をつけて文字を作ったといいます。
 「かほどうるさきものはなし、ぶんぶといひて」という狂歌では蚊は「ぶんぶ」と羽音を立てると意識されていますが、これは「文」という字を「ブン」と読むようになったからではないかと思われます。
 ふつう「ブンブン」といえばハエやハチのイメージで、蚊の羽音を聞いても「ブンブン」というふうには聞こえません。

 現代の中国語では蚊は「ウェン」と発音し、蚊の羽音も「ウェン」と発音します。
 現代中国語では文章の文も、紋章の紋も、蚊も「ウェン」と発音しますから蚊という昆虫の発音だけが変わったのではありません。
 羽音も「ウェン」と変わったのですが、文字は口偏に翁(ウェン)と造字して擬声音であることを示しています。
 蛙の場合も名前が「エ(ア)}から「ワ」と変化するのにつれて、鳴き声も「ワ」に変化していますが、鳴き声は哇(ワ)でカラスの鳴き声と同じ字に当てられています。
 猫の場合は現代語では「ミャオ」で口偏に猫というやり方で造字されていますが、「猫」という動物の名前は「マオ」となっていますから、鳴き声と似ていますが少し違います。

 このように鳴き声から名前がつけられたものでも、その後の名前と鳴き声の変化の仕方はバラバラで、一貫性がありません。
 鳴き声の変化と名前の変化が一致する場合もあれば、まったく違うものもあり、それぞれ固有の変化をしています。
 擬声語にしても、単純に音声を借りる場合だけでなく、意味を持たせようとして造字したりする場合もあり、一貫性がありません。
 表音文字的な傾向に努めようとするかと思えば表意化しようとするので、一貫した表意文字化にはならないのです。


漢字の表音

2008-09-23 23:30:05 | 言葉と文字

 「交」という字は「コウ」と読み、校、郊、効、皎、絞などいずれも「こう」と音読みしますから、これらの字の音を表わす部分、つまり音符となっています。
 「比較」の場合は「較」を「カク」と読んでいますが、本来は「コウ」と読み「比較
は「ヒコウ」と読むのが本当なのだということになっています。
 漢字の大部分は意味を表わす部分の意符と音を表わす音符で構成された形声文字だといわれています。
 ところが音を表わす部分は表音文字のように、曲がりなりにも規則的になっているかというと、そうではありません。
 
 たとえば「旬」という字は「ジュン」と読みますから、荀子、殉死などは字を知らなくても「ジュンシ」と読めるのですが、「絢爛」を「ジュンラン」と読んでしまうと、「百姓読み」と軽蔑されてしまったりします。
 現代中国語では「旬」はシュン、「絢」はシュアンのように発音するらしいので、同じ音符としてみることに抵抗がないのかもしれませんが、日本での「ジュン」と「ケン」は違いすぎます。
 漢和辞典をひくと「旬」は「めぐる」とという意味で、「絢」の「旬」も「めぐる」と言う意味だそうですから、「絢」を「ジュン」と読むのも無理からぬことです。
 しかし「絢爛豪華」をいまさら「ジュンランゴウカ」と読んでもいいとはいえませんから、漢字の音読みというのは読み慣わしに従うものだとしかいえません。

 情報を「漏洩」するという単語の読みは、「ロウエイ」と読み慣わしていますが、「ロウセツ」が正しい読みだと言われています。
 「洩」には「エイ」という読みと「セツ」という読みがあって、「もれる」という意味のときは「セツ」と読むということになっています。
 「曳」は「伸びる」というような意味で「エイ」と読みますが「セツ」とは読みません。 「洩」はサンズイに「曳」「のびる」で、水が漏れるという意味になるということから「もれる」という意味の「セツ」という言葉に当てられたようです。
 「セツ」という言葉に「洩」という字が当てられたので、「洩」は「セツ」とも読むようになったわけです。

 ところが同じようにして「泄」という字にも「もれる」という意味の「セツ」という単語があてられたので、同じ意味で二つの文字が出来ています。
 「泄」は「排泄」という風に使われていますが、「漏泄」というふうにも使われ、これは「漏洩」と同じ意味です。
 「泄」の「世」も「伸びる」という意味があるので、「エイ」という読みの「洩」と同じ意味でも使われ「エイ」とも読みます。
 二つの文字の意味が同じなら、いっそ「セツ」には「泄」、「エイ」には「洩」を専属させて、「ロウセツ」「ハイセツ」はともに、「漏泄」「排泄」とすれば紛らわしくなく、記憶の負担も少なくてすんだはずです。
 
 「該当」を「カクトウ」と読み誤る例がありますが、「亥」を「カク」と読む例は「核」ぐらいしかなく、「亥」だけでは「ガイ」で「亥」を音符とする字は劾、咳、該、骸、駭など「ガイ」と読むほうが多数派です。
 それでも該当の該を「カク」と読んでしまうのは、「ガイ」と読む字がなじみがうすく、「ガイ」という音も意味の喚起力が日本人に対しては弱いためです。
 「核実験」のように「核」はなじみがあり、日本語化しているので、その読みの連想から「該当」の「該」もつい「カク」と読んでしまったのでしょう。
 音読であってもひとつの文字に、いろんな読みが当てられているので、まぎらわしいく、漢字の表音方法というものは一貫性がないのです。
 


慣用読みでもよい

2008-09-20 22:59:43 | 言葉と文字

 漢字の読み方についての本には、「消耗」という単語をふつうは、「ショウモウ」と読んでいるけれども、ほんとうは「ショウコウ」と読むのだと書いてあります。
 「耗」という字の旁は「毛」なので「モウ」と読んでしまうのですが、正しくは「コウ」で、「毛」だから「モウ」だと単純に思い込んではいけないというのです。
 こうした思い込みで間違った読みをすることを「百姓読み」というそうです。
 「洗滌」は「センジョウ」と読むのが百姓読み、本来は「センデキ」、「憧憬」は「ドウケイ」でなく「ショウケイ」、「貪欲」は「ドンヨク」でなく「タンヨク」だなどという例がよくあげられています。

 ところで「消耗」の「耗」は「コウ」という読みしかないのかと漢字字典を引いてみると、じつは「コウという読みだけでなく「ボウ、モウ」という読みもありますから、「モウ」とは読めないということではありません。
 ただ、「ボウ、モウ」と読むときの「耗」は「くらい」という意味で、「コウ」と読むときは「へる」という意味なので、「消耗」は「ショウコウ」が正しいということになるようです。
 旁の「毛」は毛皮の「毛」という意味ではなく、「亡、莫」とおなじで「ない」という意味で、そこから「へる」という意味が派生したとあります。
 そうするともとは「ボウ、モウ」と読み「ない」あるいは「くらい」という意味だったのが、あとから「へる」という意味が派生し、「へる」という意味の「コウ」という単語を表わすのに「耗」が使われるようになったようです。
 日本語では「へる」という意味で「コウ」と発音する言葉はありませんから、「耗」という字を見てもこれが「へる」という意味だと分かったとしても「コウ」とは読めません。
 日本人にとっては「耗」が「へる」という意味だとしても、読みは「コウ」でも「モウ」でもよいのです。
 したがって「消耗」の場合、慣用読みの「モウ」は百姓読みだとして、「コウ」にどうしてもしなければならないというほどのことはないのです。

 「洗滌」の「滌」も字典を引くと「テキ、デキ」という読みのほかに「チョウ、ジョウ」という読みもあるので、「滌」は「ジョウ」とは読めないということではありません。
 漢和辞典によれば「滌」あるいは「條」の源字は「攸」で「水が細く流れる」という意味だというのですが、読みは「ユウ」です。
 「洗う」という意味の「テキ、デキ」という言葉が、「攸」という字を借り、それが「滌」という字に変化したということですから、「滌」という字が「テキ、デキ」としか読めないということではないのです。
 「耗」の場合と同じように、音声言葉が先にあり、借字をしているのですから、文字の元の読みではないのです。
 したがって「センデキ」と読むのが正しいと言って、今から改めるほどのことではありません。

 「憧憬」の「憧」も旁の「童」は「ドウ」と読むのですから「憧」も元来は「ドウ」と読んだはずです。
 漢和辞典を引けば、「憧」は「なにもしらず、おろか」という意味では「トウ、ドウ」と読み、「あこがれる」という意味の時は「ショウ」と読みます。
 したがって「憧憬」の場合は「ショウケイ」が正しいということになるのですが「童」は「おろか」とか「なかがぬけている」といった意味が原義なので、「憧」の元の意味は「なにもしらず、おろか」ということで、読みも「トウ、ドウ」が本家のようです。
 「あこがれる」のほうは派生義で、「あこがれる」といういみの「しょう」という言葉が、「憧」にヤドカリをしたのでしょう。
 中国語では「憧」という字を借りたからといって、読みを「トウ、ドウ」と変えるわけにいかず、「憧」に「ショウ」という読みを付け加えたのです。
 「貪欲」の「貪」は仏教用語のときは「トン、ドン」、漢語のときは「タン」で、時代による発音の変化ですから、どちらが正しいということもありません。
 こうしてみると日本語の中での慣用読みは、百姓読みとしてきつく否定するほどのことはないように思われます

 


形声文字

2008-09-19 00:31:29 | 言葉と文字

 「江」や「河」のような漢字はサンズイが意味の分類を表わし、「工」「可」という部分が「コウ」「カ」というふうに音を表わしているとされています。
 こういう種類の漢字を形声文字といい、漢字の80%は形声文字だと言われています。
 形声文字の音を表わす部分(音符あるいは声符)を覚えていれば、知らない漢字であっても音読することが出来るので、漢字は覚えやすく便利だというふうな主張もあります。
 ところが「意」とか「以」は、どちらも「イ」と読みますが、「億」「似」という字になると「オク」とか「ジ」と読むので、なまじ形声文字の知識を応用しようとすると間違えることになります。
 「工」「可」にしても「空」「阿」は「クウ」「ア」と読むのが普通ですから、うまくいかない例があるのです。
 「空」や「阿」も元来は「コウ」「カ」と発音していたのかもしれませんが、時代が変わって「クウ」「ア」と発音するようになったのかもしれません。

 少し極端な例では、図にある「各」のような場合があります。
 「各」自体は、漢和辞典を引いても「カク」という読みしかないのですが、「各」を音符とした文字の読み方は、「カク」だけでなく「キャク、コウ、ガク、キュウ、ラク、リャク、ロ」など幾種類もの読み方があります。
 もともとは同じ読みだったのかもしれませんが、読み方がいくつにも分かれてしまっていますから、「各」を「カク」と読むというふうに思っているだけでは、読み違いとなる場合が多いのが分ります。
 これらのうち「格」や「客」のように、おなじ文字が「カク、キャク」のように読み方が複数あるものは、いわゆる漢音、呉音の違いで、中国では時代の変化につれて音声が変化したのに、日本では古い読みが消えず、変化後の読みと同居しているようです。
 日本と中国で発音が同時に変化すれば、日本でも一つの読みに統一されたのでしょうが、日本で中国と同じ発音変化がなかったので二つ以上の読みが生きているのです。
 
 これにたいして「洛、落、絡、酪、烙」などは「ラク」という読みしかありませんから、「格、客」などとは違ったグループの文字です。
 「路、露、賂」なども「ロ」という読みで他のグループと離れています。
 どれも「各」という音符なのでもとは同じ発音の文字だったのかもしれませんが、何らかの意味で別の単語グループだったので、音声の変化が別々だったように見えます。
 読み方のグループが同じであれば、「各」の部分の意味に共通性があるかというと、洛と落、絡のように意味の共通性のないものがありますから、発音が同じだから意味も近いとは必ずしもいえません。
 格と客、喀などについて、「各」は「つかえてとまる」という意味を共有しているという説明が漢和辞典にはありますが、日本人にはイメージ的に分りやすいものではありません。

 漢字の訓読みは日本語なので、読みを知れば意味が分かるという場合が多いのですが、音読みの場合は、読みを知ったからといって意味が分かるわけではありません。
 「各」の例で見られるように、一つの音符に対して読みがいくとおりもあると、どの文字にどの読み方が当てはまるのかは、文字を見ただけでは分りません。
 一つの音符の読み方を覚えるときに、いくとおりもの読みがあったのでは、覚えやすいとはいえません。
 漢字の場合は文字が単語でもあるので、発音も意味も変化するため、文字と発音や意味とのズレがでてくるのです。
 漢字の読みとか意味に、きちんとした規則性があると思い込みすぎると期待を裏切られることになります。