『やんちゃジジイ・ゆうちゃん』のイカすセカンドライフ

我儘で『やんちゃ』な爺さんの目標は、
周りに笑顔を振りまいて、楽しくセカンドライフを生きる事。

人生なんて出会った人次第(その3)

2018年03月09日 | Weblog

音楽に関わる話をしましたが、もうひとつ人との出会いで変わったのが仕事。
舞台関係の仕事から足を洗った後は、32歳で定年退職した会社に就職した。
20代の人生は自由気ままにやっていた気がします。

僕は10代から色々なアルバイトをやってきました。
最初にやったのが、かの有名ゴルフコース『小金井カントリークラブ』のキャディー。
今では考えられないけれど、高校の同級生でサッカー部の同僚の母親が
『小金井カントリークラブ』のキャディーマスター(責任者)をやっていた関係で、
3日間の講習を受けて、キャディー登録して始めたアルバイトだった。
なんせ、政治家や芸能人、プロ野球選手が多く利用するコースなので
親も認めてくれたというわけ。
高校1年生の夏休みから、土日、休日のアルバイトとして4年間やって居た。
これも人の繋がりで始まったアルバイト。

それと並行して(株)シミズスポーツ装飾センターという会社(現シミズオクト)で
夜は後楽園球場で切符切りや場内整理もやって居た。
野球の試合が無い時はプロレスのリング作りをやったりもした。
その会社が、シミズ舞台工芸(株)と言う会社を設立して、そっちの手伝いで
歌謡ショーの仕事もあったかな?
アグネスチャンショーで楽屋で本人に会った時は感動しましたね。

その他はライフガードかな?これも姉貴の関係で紹介された。
19歳にはライブハウスなどに関わって居たから、これも夏だけ。
とにかく金が無かったから、ライブの仕事が無い時はアルバイトしてた。
メンズショップで洋服を売りながら、ネクタイの締め方を勉強させて貰ったり
喫茶店で店を任されたり、キャバレーに酒を運ぶ運送屋だったり、
その他、新幹線の清掃、大工の下働き、道路のライン引き・・・・全部思い出せない。

ビル掃除は高校2年から3年間、キャディーと野球場のバイトと一緒にやって居ました。
高専を卒業する時に就職しなかったから、その会社から係長待遇でスカウトされたほど。
色々なバイトを本気でやって来たから、色んな事が身に付いていました。

舞台の仕事を辞め、珈琲問屋も飛び出し、その後は自動車整備士になったけど
結局半年もしないでトヨタ系のディーラーを退社しちゃった。
それで、自動車の解体屋をやって居たのだけれど、親父が癌で倒れて、
こんなフラフラした人生を送って、心配ばかりかけたまま死なせたくないな…
そんな事を思って、悩んでいた時に4年上の高専の先輩と、偶然顔を合わせ、
意気投合して、先輩から『NECの下請けで設計業務をやらないか?』と誘われた。

それで暫く返事を待ってもらい、その晩から古い電気工学の本を引っ張り出して
毎日3時間くらい夜中まで勉強したかな?
何となく感覚がよみがえって来たので、先輩の誘いに乗る事にした。
それでも、通勤に片道2時間はしんどくて、そのうえ下請けの人間には
差別的な扱いをする人が居たりして、あまり居心地の良い場所じゃ無かった。
それで、親父が他界した途端に引き上げて来た。

先輩は何も言わず、黙って僕を放置して居ましたが、
『おい、お前どうする?好きにして構わないが、自分の喰い扶ちは、自分で稼げよ』
と言われて、同じ高専の先輩を訪ねて行ったのが定年まで世話になった会社。
最初は、今でいう派遣社員でやって居たのだけれど、その時の部署の課長に
『仕事をする時に、きちんとメモを取って居るのが気に入った』と言われて
社員にならないかと誘われたのだけれど、断り続けて3年が経過した。
その翌年にブラックマンデーで、パート社員や業者を切る話になって、
会社は相当嫌がったようでしたが、取締役の推薦で正社員として雇うと言う条件で、
引き抜きに応じることにした。

この時も先輩に会っていなければ、その後の人生はどうなって居た事やら・・・・
人によって導かれる事って、僕の人生では多かった気がします。

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