昨日の相撲はおもしろかった。大関正代の相撲である。取り直しがもう一回あるのかと思ってしまった。辛勝であった。相手をしていた隠岐の海が、正代でも大関になれるのなら、オレだって・・・という噂があったらしい。これもまた然りと思ってしまう。正代は、隠岐の海が嫌いらしいのだ。大笑いである。
正直、正代は好きな相撲取りである。キャラが憎めない。欲がないからだ。怖さがない。他人を威嚇しようという意図がない。これが好きな理由なのである。
よくいるではないか。たいした力量もないのに威張り散らすアホが。正代君は、そういうところはまったくない。もしかして、おちゃらけているのかも知れないと思ったからだ。力量はある。しかし、それを表に出さない。これは立派じゃ。見習いたいと思うからである。
そうすると誤解される。評論家の北の富士閣下が、正代のことをぼろくそに言うが、あれは言われてもしょうがない。稽古が足りないというのは、先輩たちの口癖だからだ。北の富士も好きだった。それは時々、負けなくてもいい相撲を取りこぼしていたからである。同時代に、立派な先輩がいくらでもいたから不運だったとも思うのだが。
つまり、勝負は時の運であるということである。実力だけで進軍していくのではないのだ。勝負の神様が、どっちかについているのである。織田信長だって、桶狭間でまさか勝つとは思っていなかっただろうということでもある。思うに、戦国時代はまさにどっちが勝つかわからない時代でもあったのだ。
これは現在の世の中もそうだろう。日々戦っているサラリーマン戦士の生き方もまた運次第であろうと思うからである。
さらにコロナがある。平安時代にも疫病は流行っている。方丈記なんかにもいろいろと書いてある。鎌倉時代でも疫病は流行った。室町時代も戦国時代にも流行した。江戸時代もである。そして、犠牲になったのはいつも庶民。
そういうところから、祈りの文化が出てきた。疫病退散である。ボキもそうだが、庶民は祈るしかなかった。(*_*) マイッタな。
今日はそんなことくらいしか書くことがない。
BYE-BYE!