植物学とか、生物学の好きな人にはたまらんだろうなぁ。
この大自然。
あまりににもいっぱい植物の紹介を受けたが、
記憶力の悪いオレでは、ことごとくお忘れモード。
同好の士達は、特に奥様連中は、名前がひょいひょいと出て
来る方もあって、たまげた。
(^-^)/
植物学とか、生物学の好きな人にはたまらんだろうなぁ。
この大自然。
あまりににもいっぱい植物の紹介を受けたが、
記憶力の悪いオレでは、ことごとくお忘れモード。
同好の士達は、特に奥様連中は、名前がひょいひょいと出て
来る方もあって、たまげた。
(^-^)/
月山8合目
ここまでヘアピンカーブの連続であった。
同好の士とともに、恐怖感を味わへり。
(^0^)
2013年8月25日から27日まで
同好の士と共に。
最終のBusで帰ってきました。1:14になってしまいました。
生きています。(^0^)
森の精霊たちとたくさん逢ってきました。
さらに、松尾芭蕉の奥の細道北限の土地にも。
月山と鳥海山の湿原地帯を歩いたので、専門の案内の人に連れられていきました。
でないと、野生の花が、あるいは、森の妖精たちがわからないのですから。
そういうことです。そういうこと。
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです。
私は、その大変良い設備を持った舞台で、例えば『ゴドーを待ちながら』が上演されないことを、残念に思っています。―この作品を、私は今世紀最大の価値を持つ戯曲である、と思っています。(注:舞台とは普遍アントロポゾフィー協会のあるドルナッハのゲーテアヌムの舞台のこと)
第一控えの間 2階の「鏡の間」の真下に位置する「第一控えの間」です。金があしらわれていますが、基本的にシンプルな部屋ですね。 pic.twitter.com/bPURLLiwXr
「流行している研究などやらなくていい。人まねでもかまわない。牛でこうだったから、馬でもそうなるかどうかは、やってみる前から分かる筈はないでしょう、つまらない研究なんてない、実験が失敗したら大喜び... goo.gl/2c9XIb
マジっすか? RT@毎日jp編集部 @mainichijpedit 1時間 大学生の1日の読書時間が平均30分、まったく読まない学生が4割弱だったことが分かりました→ goo.gl/WazT1M 大学では読書会などで、「読書回帰」を促しているそうです。
Facebookのアルバム「オニコウベ温泉 鬼首と書く」に写真を8枚アップロードしました fb.me/2kWC2DMz2
みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は、"縁なき衆生"と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。
『水曜どうでしょう』の藤村、嬉野両ディレクターと歓談3時間。『どうでしょう』があんなに面白いのは二人のディレクターが「世界のどんなテレビもやったことのないもの」を創ろうとしてきたからです。手元にあるものだけを使い回して、これまで誰もしなかったことをやる、究極のブリコラージュ。
今日、国会図書館から古文書のコピーがきた。居住地の県立図書館経由で、実にありがたいものだ。カネを払うと、資料を渡してくれる。居ながらにして、なんでもできるのだ。ありがたい、ありがたい。
今日の夜も塾で数学をおせーてきたが、なかなかハードですなぁ。一問でも間違ったら、オレは辞表を出すつもりだから、崖っぷちだ。(^0^)
明日は、在籍校の院生室に行こう。クルマにしているから、安易なものだ。反省している。しかし、図書館に籠もるのもまたオツなもんである。それが大学生活のカナメだからなぁ。出来は悪いけど(>_<)ゞ
つまらない研究なんてない、実験が失敗したら大喜びしなさい
読売新聞の読書紹介のページにすこぶる面白い書評があった。
宇宙物理学者で東大教授の須藤 靖先生の「笠井献一著『科学者の卵たちに贈る言葉』」である。岩波書店から1200円。内容が実に面白い。
実は、この25日から月山と鳥海山に行っていたのだが、朝早くの出発だった。新幹線に間に合わなくて千葉市のホテルに前泊した。そこで、ロビーに置いてある無料の新聞を見ていたら、この記事があったのである。非常に得した気分になった。無料だから、びりびりと新聞を破って月山まで持参した。それで、この記事を書いている。(旅のことは、FBではお友達に写真つきで、いろいろ公開してあるが)
何が書いてあるかというと、書き出しが「2位じゃ駄目なんでしょうか?」という世紀を代表するような迷言から始まるからである。あれはあれで非常にすばらしいパフォーマンスであったと思っているのだが、オレは。トップ研究者たちは、もちろん研究は一番でなくてはならないと反論した。その中で、この書評を書いた須藤 靖先生は、科学は勝ち負けではない、競争のための競争など無意味」と小声で繰り返してこられたのだそうな。
しかも、「笠井献一著『科学者の卵たちに贈る言葉』」は、「研究はスポーツ競技じゃないんだから目的は他人に勝つことじゃないよ」で始まるのだそうだ。嬉しくて、嬉しくてたまらなかったのだそうな。
非常に愉快である。
わはははははははははである。
事例があげてある。
生化学者の江上不二夫先生は、誰かれかまわず目があったらこれ幸い、相手の都合などおかまいなしに自分の考えをしゃべりまくったという。いったんおしゃべりモードに入ったら、トランス状態。神様がのり移ったかと思われるような憑依状態。しかも、おなじことを何遍も繰りかえされる。
これまた、わははははははである。
こういう方々もまたいっぱいいたなぁ、と思っているからである。一心不乱に勉強をなさってそれなりの能力を現す方というのは、そうでなくちゃいけないと愚生も思っている。ある意味憧れである。それくらい勉強してみたいと思うからである。なかなかその心境まで到達していないのだがねぇ。残念ながら。
笠井献一氏は、その江上センセのお弟子だ。
江上語録みたいなかたちでいろいろ紹介してある。これが洒脱なのだ。
「流行している研究などやらなくていい。人まねでもかまわない。牛でこうだったから、馬でもそうなるかどうかは、やってみる前から分かる筈はないでしょう、つまらない研究なんてない、実験が失敗したら大喜びしなさい、私と君たちとの差は経験が多いか少ないかだけなのよ。」
どうです?
こういうことが云える学者って、さすが一流ですよん。
いやぁ~、いいことを教えていただいた。
ありがたきかな。
マジに。
若い研究者への応援歌ですな。応援歌。
これ以上のものはないですよん。
だから頑張ってねぇ~そちらのおわけぇの。
(^-^)/
明日から月山と鳥海山に山への信仰を確かめに行く。明日朝早いので、千葉に前泊する。今日は。楽しみじゃな、楽しみ。#fb
そもそも読者に詩人を理解する義務があるのでしょうか、あるいは詩人に読者が理解できるように書く義務があるのでしょうか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
西往寺宝誌和尚立像:宝誌和尚は実在した中国南北朝時代の僧侶。梁の武帝が絵師に和尚の肖像を描くよう命じると、和尚の顔が割れて中の菩薩がどんどん変化するので、結局お顔を書く事が出来なかったという。twitpic.com/9csg0t
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです。
9月、7日・8日と日本安全教育学会で口演をさせていただきます。
房総の津波と日本古典というタイトルです。
今から楽しみです。
ようやくここまできたという感覚でいます。
全... goo.gl/xib1ch
月山に行ってきます。
出羽三山信仰というものに「も」、非常に興味を感じていて、これからも課題として幾度も浮上してくるオレの課題であります。今回は、月山のみでありますが。
しばらく... goo.gl/CAA4cd
そうなのかね?ますます若者がかわいそうだ RT @hennayagisan1: もうちょっと大学院生の定数を減らすことと、就職実績の悪い大学院廃院すべきです。でオーバードクターを減らすべきです。
何をやったらよいかわからないという若者が多くなっているが、ゆゆしき問題です。就職一本槍というのもいかがと思うが、博士まできて高等遊民というのもいかがなものか?
ヘラクレイトスの暗い断片を引き、存在は哲学的思考にとって戦争として啓示されることを明かすまでもない。戦争は、最も明白な事実として哲学的な思考を侵しているだけではない。現実的なものの明白さそのものとして-或いは真理として-哲学的思考を侵しているのである。-全体性と無限-
エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない。-主体の解釈学-
恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩句で表現するとき、何がそれを正当化するのでしょうか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
さあ、わしの杯になみなみと注いでくれ。まず初めに仲違いの為ではなく、互いの気持ちを大切にする為に乾杯しよう。さもないと、誰かの汚れた目の呪いにかかって、わしの好意もふいになってしまうからな。悪魔って強いものでな! 間違いを起すのはわけもないこったよ! ―主婦
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
もし彼が時を過って、堕落した社会主義かぶれの怪物に出会って、何か社会的かつロマンチックな口実のもとに強盗の寄り合いのような徒党を作り、まず試験の為に、誰でも出会い次第の百姓を殺して有り金を強奪しろとたきつけられたら、彼は必ずのこのこ出かけて行って言われた通りをするに相違ない―悪霊
制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析(可逆な諸関係の総体としての権力の分析)は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。-主体の解釈学-
継起的で可変無常な直観、一般的に情という広範囲の概念のうちに抽象的でないとか明晰でないとかいうネガティヴなレッテルで一括されているところのいっさいを、抽象的な明晰な知にいたるまで、つまり一つの永続不変の知にいたるまで高めること、これが哲学の任務である。
言葉がまだ話せず、従ってまだ考えることもできないとされる幼児が、言葉に意味があるとわかるのはどうしてでしょうか? 『M・エンデの読んだ本』『エンデのメモ箱』「親愛なる読者への44の質問」
■「自分自身のことでも、自分の世代のことでもなく、来るべき世代の、私たちの孫や、まだ生まれてもいない大地からやってくる新しい生命に思いを馳せる。」【アメリカ先住民の古老】
ニーチェ、バタイユ、ブランショにとって、経験とは、〈生きることが不可能なもの〉に最も近いような生の地点に到達しようとすることだった。求められているのは、最高度の強度であると同時に、最高度の不可能性だった。-M・フーコーとの対話-
東京大空襲でまだ小さな息子を亡くしたという患者さんが亡くなる間際のある日「息子が来た」って言い出しましてな、これを譫妄で片づけることもできたんでしょうけど「あら、大きくなってました?」って聞き返してしまったオレ。
「不思議なのよう、何十年も経ってるのにハタチぐらいの若者で」って恥ずかしがってたけどなwいい男になってたんでしょうなあ。「こんなこと言ったらバカにされるかと思ってた」って言うから、何言ってるんすか、わたしだってそうやって会いたい人ぐらいいますよ!って言うといた。
それからすぐ患者さんは亡くなっちゃったけど、若者姿の息子に手を引かれて行ったんでしょうねえと夜勤の相棒と気合入れてエンゼルメイクしてお送りした。夫にも死なれてて一人ぼっちの人だったけど、息子と一緒に歩くんだからって思いっきり美人さんにしといたぞ。
それでは出かけて参ります
月山に行ってきます。
出羽三山信仰というものに「も」、非常に興味を感じていて、これからも課題として幾度も浮上してくるオレの課題であります。今回は、月山のみでありますが。
しばらく拙ブログの更新ができません。
それではお元気で!
◎ウィキペディアからの引用↓
出羽三山(でわさんざん)とは、山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者、参拝者を集める。
出羽三山は、出羽三山神社の社伝では崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。
月山神社は『延喜式神名帳』に記載があり、名神大社とされている。出羽神社も、『神名帳』に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。古来より修験道(羽黒派修験など)の道場として崇敬された。三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。すなわち、羽黒山出羽神社は、伊氐波神の本地仏を正観世音菩薩とし、一山を寂光寺と称して天台宗の寺院(輪王寺の末寺)であった。羽黒山全山は、江戸期には山の至る所に寺院や宿坊が存在した。羽黒山に羽黒山五重塔が残され、鳥居前に手向宿坊街が残っているのはその名残である。月山神社は、本地仏を阿弥陀如来とし、岩根沢(現・西川町)に天台宗日月寺という別当寺が建てられた。湯殿山神社は本地仏を大日如来とし、別当寺として本道寺(現・口之宮湯殿山神社)、大日坊、注連寺、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)という真言宗の4寺が建立され、うち本道寺が正別当とされた。
江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。出羽三山の参道は、通称「七方八口」と言われた。八口とは、荒沢口(羽黒口)、七五三掛(しめかけ)口(注連寺口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口であり、そのうち、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方となった。それぞれの口には「女人結界」が設けられ、出羽三山の山域は女人禁制であった。別当寺は、女人参詣所という役割もあった。なお、八口のうち川代口は江戸時代初期に廃され、肘折口には羽黒山・月山派の末坊、阿吽(あうん)院が置かれた。
出羽三山の諸寺は山域の通行手形の発行も行い、出羽三山の参道は、村山地方と庄内地方とを結ぶ物流のルートであった。庄内藩は大網に「大網御番所」を置いて、これを管理した。同じく、村山地方には大岫峠の手前に山形藩の「志津口留番所」が置かれた(江戸初期のみ。のち村山側も庄内藩知行地)。志津には、湯殿山別当であった本道寺と大日寺がそれぞれ「賄い小屋」を建て、参拝者の便を図った。
明治の神仏分離で神社となった。1873年(明治6年)に国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却された。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれた。旧社格は月山神社が官幣大社、出羽神社・湯殿山神社が国幣小社である。戦後、神社本庁の別表神社となった。
9月、7日・8日と日本安全教育学会で口演をさせていただきます。
房総の津波と日本古典というタイトルです。
今から楽しみです。
ようやくここまできたという感覚でいます。
全ての拙ブログ読者様へ。。。
ご指導、ご声援ありがとうございました。
これからも、修行しますので。
よろしく_(._.)_します。
平均化への努力。「そうひどくはないよ、みんなそんなところだ」とぼくは言い、それによって事態をさらに悪化させた。ぼくの教育の欠陥からくる必然性ーーこうするよりほかにしらないということ。『断片』
孤独は人間の本性なのです。だから人は愛し合うのです。。。てなことを瀬戸内寂聴先生が書いているそうな。然りですなぁ。然り。#fb
たとえつかの間とはいえ、よくもまあおれはあんながさつな悪党から、あんな色気ちがいの身を持ちくずしたげすな男からなにかを期待するような気持ちになれたものだ! ―罪と罰
いいなぁ、実にいい言葉ですよん RT 瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 相手の立場を想像する力、相手の欲することを与えることが「愛」です。相手が何を欲しているかを考えて下さい。相手の身になってしたいことをしてあげればいいのです。 #fb
1994年に10歳,2004年に20歳。多感なティーンの時期が,社会のIT化の時期とピッタリ重なっている。こうした条件が,この世代の人間形成に与えた影響は看過し得ない。
教育でも、マニュアルばっかりあって、いちばんいいやり方がどっかにあるんじゃないかと思うから、すぐ専門家に相談して、わたしのやり方はどうですかって聞くでしょう。マニュアルなんかないって思ったほうがいいですね。マニュアルはないですよ。だから教育の相談とか受けると、とても困るんです。
ばかばかしい恰好に髪を前の方へ盛り上げた、思い切ってやくざなシベリア出来の紳士の鬘(かつら)も、さしてミーチャを驚かさなかった。『鬘を被ってるところを見ると、やっぱりああしなくちゃならないのだろう』とミーチャは幸福な心持で考え続けた。 ―カラマ
老人も中年も若者も、自分たちが一番正しいという誤った自信を捨て、無垢(むく)な感性を取り戻し、自分をもっと柔軟にしていけば、滑(なめ)らかな人間関係が生まれてくるはずです。
私は失望するといつも思う。
歴史を見れば、真実と愛は常に勝利を収めた。
暴君や残忍な為政者もいた。
一時は彼らは無敵にさえ見える。
だが、結局は亡びている。
それを思う。
いつも私は・・・。
ペダンテリーの徒が一般的な格率をもって人生に処してもいつも足りないところが出てきて、彼は愚かで、野暮で、役に立たない。芸術に対しては概念は用をなさないから、このような人が芸術に携わるならば、生気のない、あぶら気のない、いやに恰好めかしたアナクロニズムの出来損いを作り出すであろう。
ここに、私がハイデガーを読んでいた頃にとったノートを、-何トンも!-まだ持っています。しかも、ヘーゲルやマルクスについてとったノートよりもはるかに多量にあります。私の哲学的生成の全てが、私のハイデガー読解によって決定されました。-道徳への回帰-
私が書く行為は冒険のようなものだ。その冒険が私をどこへ連れてゆき、終りがどうなるのか、私自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身が違う人間になりました。 『ものがたりの余白』
個別的な〈もの〉は、ある面で工業都市に似ている。工業都市にあっては一切が生産という目的の為に適合させられている一方で、工業都市は煙に満ち、屑と悲しみとに溢れて孤立しているのだ。〈もの〉にとっての裸形とは、その〈もの〉の存在が目的に対して有する余剰のことなのである。-全体性と無限-
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
それぞれに唯一のものである現在が、未来の為に耐えず犠牲にされ、未来は現在の唯一性から客観的な意味を取り出すために呼び出される。究極的な意味だけが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ自身へと変換するからである。-全体性と無限-
実を言えば、私は公衆のために書いたためしがない。そうではなく、全ては神とのひとつの対話なのだ。その対話では、私は神から何かの恵みをお願いするのではなく、神に語りたいのだ。 『だれでもない庭』
ヘレニズム・ローマ期の哲学における、ひとが生涯を通じて行ってきた救済、救済の行為、救済の活動が齎す報いの二つの形式。
アタラクシア:動揺の不在。ひとがいかなるものによっても動揺させられないようにする自己の統御
アウタルケイア:自己以外の何者も必要としない自己充足
-主体の解釈学-
別れの辛さに馴れることは決してありません。幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。それが人間なのです。
オレもあれだ。
かわいいじじいでありたいね。
なんの打算もない、じつに綺麗な、清純なじじいでありたいよん。
もうなっているか。
わはははははは。
... goo.gl/WrNlBV
繰返して言おう。本当に、死が到来すれは、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。 (本居宣長)
“LINE疲れ”に陥る学生たち 「返信は義務」80%…既読機能が苦痛(SankeiBiz) headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130823-…「メッセージを開くと、相手に「既読」が伝わるため、そのまま何も返信しないと相手が気分を害するのではないかと、プレッシャーに」なる。
きのうの失敗
レーニンの哲学ノート(岩波文庫)を捜していたら、あっという間に真夜中になっちまった。話にならんなぁ。書庫が狭いので、時々処分していたからその時に捨ててしまったのかもしれない。なに...
孫が来ていると、なにもできないってことを去年、喜んで書いていたっけ。。
(^0^)/ウフフ
[かわいい]
かわいいという言葉がある。
どのような場合に使われるのだろうかと思うことがある。孫に対してオレはよく使うなぁとしみじみ思う。なんのためらいもなく使うのだが、「ためらいもなく」という点が重要である。孫は圧倒的にかわいいからである。理由なんかない。ただひたすらにかわいいからである。
先日、ある女性政治家にこのかわいいを彼女のFacebookで連発していた多数の輩がいた。あふぉ~な男性諸氏もずいぶんいるもんだと呆れていたが、案の定、女性政治家を支援する男性に一喝されていた。いい加減にせーよ!というわけだ。政治的な行動を期待するのが、彼女に対する基本的な関係性のあり方であって、なにもかわいいだの、美人だのということとは無関係だと云う。当たり前である。
そんなもんで、女性を評価しているってことは、オノレのバカさ加減を天下にさらしているということになる。オレもバカだが、そこまでバカではない。
なんのためらいもなく、かわいいと連発できるのであろうか。そこには、ゼッタイすけべーこころという打算がある。だからできるワケがないとオレは思うのだ。オノレの原罪というモノを知るべきである。我々は、実に罪深い存在なのだ。誰だって、ただの一回も罪を犯したことが無いと云うことができるやつなんていない。オレだって、奥羽山脈の奥深くで育って、野いちごを盗み食いしたことがあったし、山の清流を泳いでいる川魚のいのちを奪って、焼いて食った記憶がある。スズメを山の中で、パチンコで打った記憶もある。決して、清廉潔白ではないのだ。もっとも、法律に違反するようなことはしていないけれども。当たり前だ。でないと、定年まで仕事することはできないから。
しかしである。かわいいと云うことで思うことがある。女性に対する評価として、特に相手が大人であったならば「かわいい」という言葉は、いかがなものかということを。
美しいとか、綺麗という言葉ならまだ許せる。綺麗という言葉は特にいい。
意味は以下のとおりだそうだ。
き‐れい【×綺麗/奇麗】
[形動][文][ナリ]
1 色・形などが華やかな美しさをもっているさま。「―な花」「―に着飾る」
2 姿・顔かたちが整っていて美しいさま。「―な脚」「―な女性」
3 声などが快く聞こえるさま。「―な発音」
4 よごれがなく清潔なさま。「手を―に洗う」「―な空気」「―な選挙」
5 男女間に肉体的な交渉がないさま。清純。「―な関係」
6 乱れたところがないさま。整然としているさま。「机の上を―に片づける」
7 (「きれいに」の形で)残りなく物事が行われるさま。すっかり。「―に忘れる」「―にたいらげる」
提供元:「デジタル大辞泉」
全部考えさせられる意味である。「綺」なるほど、「麗」。つまり、滅多にないほど、麗しいということなのだ。これはこれはすばらしい形容である。
特にオレの気にいった意味は、「5」である。
「男女間に肉体的な交渉がないさま。清純。」と書いてある。こりゃいい。現代小説と真逆である。綺麗な関係なんて小説にしていたら、売れねぇのだろうな。売るために書いているとはクチが裂けても云うつもりはないが、受け狙いの男女関係を書いてそれを収入にしているって部分も否定はできないだろうから。それは映画も御同様である。売るために、ラヴシーンを設定してやっているんではないかと勘ぐりたくなる小説も、映画もあるからだ。女優を見ているとかわいそうになっちまう。そうなの?そんなに、ラヴシーンに必然性があるの?とせせら笑いたくなる。 必然性とか映画の監督と出演者というのは、議論するのだそうだから。
そもそも必然性なんて言葉は、それが少なくとも後から付け加えられた場合には、いくらでもウソがつけるわけである。いかがわしいのだ。ホントカ?と疑ってオレは生きてきた。疑いがないと、論文なんて書けねぇ、書けねぇから。
(^0^)
オレもあれだ。
かわいいじじいでありたいね。
なんの打算もない、じつに綺麗な、清純なじじいでありたいよん。
もうなっているか。
わはははははは。
さ、今日は大学に登校するのだ。院生室に久しぶりに行く。図書館に本も返す。原稿書きもしてくるのだ。かわいいじじいとしてだ。
(^_-)-☆
まだ名がないものや生物に名を与える―単なる呼称では無く、まことの名を与える、これこそは人間が持つ能力の中で、もっとも人間の根源的なものだ。これにより、はじめて人と周りのものに関連ができ、その人にとり、その存在は初めて現実となる。 『エンデのメモ箱』
芸術と文芸が最上の意味で遊戯と内なる類縁関係にあるとすれば、芸術家や詩人はすべてを―おぞましいことも愛しいことも、俗なことも聖なることも、馬鹿げたことも至高の真実も―ひとつの遊戯に変える。そしてこの遊戯は芸術家や詩人には真剣なことなのだ。 『エンデのメモ箱』
哲学というのは、知を愛することであると、かのソクラテスさんは云った。そのとおりである。哲学で、ニヒリズムの快癒とか、絶望からの脱却とか、構造主義的にどうだらこうだらと云われてきた。オレもまたそ... goo.gl/EGNpR7
「十一面観音を水辺に立てることは、治水や利水の成果を示すため…先人を弔うためだったのではないか。あるいは町や村の近くまで押し寄せた津波や洪水の経験を記憶にとどめるためだったのではないか…」→畑中章宏『津波と観音』亜紀書房akishobo.com/book/detail.ht…
国際会議で学生が素晴らしい発表をして、指導教員に「あの学生いいね!博士過程なの?」と聞くと、指導教員が「いや、修士の学生で、もうすぐ卒業して就職しちゃう。優秀な学生が博士に行ってくれないんだよー」と嘆くのは、日本と台湾の大学教員でよくあること。
歴史の総体を裁きながら、しかも歴史の終末をしるしづける戦争そのものに対しても外部的であることで、終末論的なものは、それぞれの瞬間それ自体において、その瞬間各々の十全な意味を回復させる。つまり、一切の事案は、時が満ちて審理に付されていることになるのである。-全体性と無限-
ところで、国際会議で発表する学生は、欧米では博士の学生ばかりだけど、日本ではカリキュラムが早いので修士の学生も論文の発表します。海外では例外的に、台湾の学生も修士で研究発表をしますけど、これは、戦前の日本の統治の影響なんですかね。
自分の限られた留学の経験にすぎないけど、アメリカは理系の講義の宿題でも、チームで解かせるのは、日本とは全然違うと思いました。理系でも、講義の中でチームワークやリーダーシップを育成しているのは、日本も大いに学ぶべきだと思いました。
まあ、「日本の教育はダメ」とか言っている人は、中学入試の試験問題を自分で解いてみることをお勧めします。日能研や四谷大塚のHPから無料でダウンロードできるので。ビックリするくらい、難しいですよ。
民俗芸能STREAM新聞 is out! paper.li/souryukutsu/13… ? Top stories today via @dankichi0423 @tokusyuu @Shinjyukuku_Gui
新しい記事です。会社から支給されるITツールは常にトラブルのもとです
→サラリーマンのお前ら、会社のPC、携帯に気をつけろ!(常見陽平):The Workaholics hardwork.nifty.com/cs/catalog/har…
『太平御覧』のスキャンが終了したので、『ドキュメント 東京大空襲』のスキャンしてます。国は国土と国民を守るために強力な軍隊が必要だと言っていたわけですが、戦争とは、始まってしまえばそんなもの守ることなどできないことを見せつけてくれます pic.twitter.com/5ZgcI7Bqqt
採用。録られていることにより「怒鳴る」「脱線する」「寝る」が減る効果も期待できます。 RT @MJC_TPZ:eラーニングによくある授業を録画するシステムを利用して、議事録はビデオという訳に行きませんかね。
発想の転換から生まれる30代からのキャリア形成 :日本経済新聞 s.nikkei.com/14XEYBf「ソーシャルメディアの浸透で、個人であっても発信力を手にできるようになったのも大きいですね。世界に目を向けてニーズのある商品を作れば、買い手の幅も広がります」。うんうん。
このことは真実ですよん。さすがいいこと云いますなぁ。 RT@イチロー「失敗重ね、たまにうまくの繰り返し」 : スポーツ : YOMIURI ONLINE(読売新聞) yomiuri.co.jp/sports/mlb/new… … … #fb
■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。それは美しい風景の中を旅するようなもの。日没ばかり求めていては夜明けを見逃す。」【ブラックウルフ・ジョーンズの言葉】
いいなぁ、とてもいい言葉 RT@ネイティブアメリカンの名言 いい@Indianteachings 7分 ■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。#fb
小倉朗『日本の耳』での「間」の解説は表現よみの原理に応用できる。(1)「間」は「拍」と同様に予想されるもの、(2)「間」は「より長い時間のもとに成立する期待の感覚」、(3)もし「拍」を博動とすれば、「間」はより大形の呼吸の波――これらは、発声の姿勢、息遣い、声の緊張まで示唆する。
ミヒャエル・エンデ @Michael_Ende_jp 36分芸術と文芸が最上の意味で遊戯と内なる類縁関係にあるとすれば、芸術家や詩人はすべてを―おぞましいことも愛しいことも、俗なことも聖なることも、馬鹿げたことも至高の真実も―ひとつの遊戯に変える。そしてこの遊戯は芸術家や詩人には真剣なことなのだ。 『エンデのメモ箱』
今朝起きてすぐにこんなTwitterの名文が目に飛び込んできた。このミヒャエル・エンデ @Michael_Ende_jpさんのTwitterはフォローをさせていただいているから、アップの度にTwitterで知ることができる。ありがたいものである。
いや、そんなことではなくて、今朝のこの名文の内容にエラク感心したのだ。最初に、こんなフレーズがあったことを知らなかった。もっとも、そんな熱心な読者でもないし、こういう箴言めいた文章というのは捜し出すのに骨が折れる。読む側の問題意識が関わってくるからである。
このTwitterの核はなにか?
① 芸術と文芸が遊戯と内なる類縁関係にあるとすれば
② 芸術家や詩人は、すべてをひとつの遊戯に変える
③ 彼らは真剣なのだ
以上の三点に絞ることができるだろう。然りである。
このことは、現代文学にも共通して云うことができることであって、特にオレは「馬鹿げたこと」をさも至高のこととして書いている現代文学作家に幻滅しているタイプの人間だから、まったく首肯できることなのだ。
「おぞましいことも愛しいことも、俗なことも聖なることも、馬鹿げたことも至高の真実も」と書いてある部分が特にそうだ。それが世間だと云うこともできるかも知れない。それを描くのが文学だと云われるかもしれない。それならそれでいい。別に文句をつけているのではない。そういうことを知りたいと考えているかたもおられるからである。そこには苦悩があるし、その解決のために文学を読むというオレのような方もおられるかもしれないからだ。
そもそも、「おぞましいこと」にオレは苦しめられてきた。欲望があるからである。金銭欲、名誉欲、食欲、性欲、うわべを飾りたい欲、自慢したい欲、他者を軽蔑したい欲・・・実に多くある。つまり、生きる事自体がおぞましいことであった。生物であるということから脱却できなかったし、聖俗の中に生きることもできなかった。当たり前である。オレ如きが、なにをか況んやである。
「俗なこと」にも苦しんできた。一丁前に、他者と比較して、普通に生きていきたいと思ったことが何度もあった。だったら、「普通」ってなんだろう?と思ったことも多々あった。他の人と同じ顔をしていれば普通なんだろうか。違いますなぁ。違います。「俗なこと」というのは、「おぞましいこと」と密接につながっている。つまり欲望とつながっているのだ。だから、そこからは永遠に脱却できないのである。
この二つの世界から、オレは理性で脱却できる筈だと長いこと考えていた。だから信仰に走らなかったのだ。特定宗教には。今でもダメである。距離感がある。どうしてもダメである。なにもオレの理性が勝っていて、信仰に行くことができないというのではない。能力的には絶望をしているから。エリートとはほど遠い世界を生きてきた、一介の田舎教師でしかなかったからである。しかもただの高校教師だ。そんなもんが、エリートであるはずがない。もし、ご自分で高校教師はエリートだと思っている方があったら、即刻今日からその考え方を改めた方がよろしい。教育は、勉強ができなくて苦しんでいる生徒のために「も」あるからだ。マジに。
哲学というのは、知を愛することであると、かのソクラテスさんは云った。そのとおりである。哲学で、ニヒリズムの快癒とか、絶望からの脱却とか、構造主義的にどうだらこうだらと云われてきた。オレもまたそれに荷担して、哲学書出版の片棒を担いできた熱心な購読者であった。
しかし、最近は違っている。哲学を愛する人は、「おしゃべり」好きな人であればいいのだ。いろいろな概念規定について、楽しくおしゃべりをしていればいいとオレは思っている。大学のゼミというのも、そういう知を愛する人たちの集まりなのだと思っているのだ。だから、楽しいのだ。なにも、相手が実に若くて、じょせーが多いから、楽しいのではない。(そういう要素もかなりあるけど)基本的に、知を愛すること、そういう方々とおしゃべりを楽しむこと、そして、それを生かして論文を書くこと。これだよ、これ。
オレの場合は、いくつか発表の場があるし、非常に楽しいものである。これがオレにとっては「自己表現」の場となっているのである。つまり、冒頭のTwitterの書き込みと一緒で「表現」なのである。オレにとっては。実に個人的なつまらない話ではあるが。
今日は、これから孫を送っていく。
アサから哀しいのだ。だから、えらくシリアスな文章になっている。たまには、こんなことも書くのである。オレでもだ。
(^_-)-☆
ああ、明日孫が帰ってしまう。哀しいなぁ。哀しい。古女房以上、孫を産んだ長女以上、これから孫をつくってくれる長男以上にかわゆい存在なのだし。悲哀がただよっているぜよ、オレには(>_<)ゞ。#fb
わかれたくないから、長女の住んでいるところまでオレの車で送っていくことにした。あはははははなのだ。別れ際に、おいしいイタリアンレストランで、飯を食ってくるけどね。それと長女の住まいの冷蔵庫を満パイにしてこないと。(^0^) #fb
さらに、25日の日曜日に月山と鳥海山に参拝してくることにしたので、出かけなくてはならない。趣味の民俗の旅だ。論文にも書いてみたいことなので。12月の千葉県郷土史研究連絡協議会研究大会では「出羽三山信仰と房総」という講演をいただく。会員仲間の大学教授からだ。予習のつもりだ。#fb
オレも、そういうのに興味があるからだ。オレのふるさとでもあるし。それに山形には黒川能もある。来年の2月に行ってみるつもりだ。雪深い土地であるが。なに、行けないことはない。#fb
食い物なんか典型的だろうけど、見知らぬ食い物は最初それしかなくて、そのうち市場原理だか何だかで「差異化」が始まって味付けその他いろいろと……ラーメンだって「支那そば」一択だったし、スパゲティもミートソースでなきゃナポリタン、ピザもそもそも乗ってる具なんざ気にしてなかったよなあ。
いいこと書いてあるなぁといつも思っている@ネイティブアメリカンの名言 @Indianteachings
■「歩いた足跡で、ひとは永遠に知られる。」【ダコタ族】#fb
ネイティブアメリカンの名言 @Indianteachings
■「私の子供たちよ、人生の道を歩んでいるときには、けっして他人を傷つけてはいけないし、悲しい思いをさせてもいけない。反対に、おまえが他人を幸福にできるようなときには、いつでもそのようにしなさい。#fb
寂聴せんせはいつもオレを励ましてくださるなぁ!だったらオレは失った恋の多さで世界チャンピオンだわい。RT@瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot
恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。#fb
2012年度の科研費配分額上位20位大学。2012年度の配分額を,同年5月時点の専任教員数で除した,1人あたりの配分額による。東大がダントツでトップ。旧帝大が上位の多くを占める。 pic.twitter.com/NaPhg44MS4
新しい記事です。さやわかさんの最新作をもとに、物事を「常識と感情をうまく手放して考える」ということについてです。文化系な記事かもです。
→『AKB商法とは何だったのか』常識と感情を、うまく手放して考える ow.ly/o7w5F #AKB48 #就活
これってバイブルと一緒の発想ですねぇ RT@ショーペンハウエルbot @Schopen_bot 言葉は、人間の理性の最初の産物であり、その必然的な道具である。#fb
どこかへ行くには、魅力的な目標が必要なのです。出発するには、行き先のイメージが必要なのです。私は自分の作品の中で―不十分かも知れませんが―、人間にとって価値と思えるもの、指針として望むことのできるものについて、イメージを展開しようとしています。 『芸術と政治をめぐる対話』
異議申し立てが行われうるとすれば、我々の全ての思考を歴史的に可能にしてきたものといかにも調和が取れない故に、多分常軌を逸したものとみなされるような、ひとつの問いかけから出発してのことだろう。その問いかけこそ、まことに〈人間〉は実存するのかと、自らに問うことである。-言葉と物-
明後日の金曜日から大学に行こう!久しぶりだな。愛車で行くから、お昼は東金のエストーレホテルでランチをいただくか。あそこはおいしいのに、安価なんだよん。1000円くらいなんだ。相手は?・はははオレ一人ですよ、当たり前ですがな。誰も相手してくれないから(>_<)ゞ
#fb
中国、一人っ子政策緩和拡大へ 高齢化で廃止案も浮上 - (よんななニュース) 47news.jp/CN/201308/CN20…「人口抑制のために30年以上実施している「一人っ子政策」について、早ければ年内にも緩和を拡大する方向で検討」。高齢化による労働力不足の問題が勝ってきたか。
血圧が高くなったのは、クラスメイトたちがあまりにも美しいからだよん。これってぜーたくな悩みだと殴られそうだけど、ホンマでっせ。マジに。ま、オレは老人だから、優しくしていただいてますけど。ますます殴られますな。だったら、入学してみませんか?良い学校でっせ。#fb
computerができなくてもok!プロ級がいくらでもいるし。ただし、あれですよん。ご自分の専門については、しっかりとした自覚を持たれたほうがよろしいでっせ。オレのようにならないためにも。(^-^)/#fb