[枯木灘の郷土史家]
理性の勝る方というのは、どーも体験上だが、文献至上主義というのから脱却できていないような気がする。気がするというのは、オレの古くからの友人にはあまりそういうのはいないからで。少数ならいる。いるけど、少ないながらも、スキーが2級で東大行ったり、柔道の高段者で国立大学に行ったり、応援団長で現役で仙台の旧制帝大医学部に入学したのもいた。みんな、行動派なのだ。本当に、人に知られずに、猛勉強していたのだ。だから、受験勉強の世界で頭角を現していったんだ。
オレ以外はである。(苦笑)
ま、いいじゃないか。それもまた人生。これもまた人生。もう、新規まき直しというわけにはいかない。それに、オレはこんな自堕落な半生だったが、これでよかったと自己満足しているし。もう、修正はきかないから。当たり前である。どこをどうやって修正するというのだ。それにそんなに自分の人生について、不満を抱いているわけでもない。
こんなもんであろう。こんなもの。田舎教師で終わってしまったし。なんも問題を起こさなかったというだけめっけもんだ。そして、時々思うのだ。「自己満足も悪くはねぇ」って。これ、オレの大学生の時は、(おっと、今でもオレは大学生様か)日和見主義だとか云われて糾弾されたような遠い記憶があるけど。違ったかな?発展性が無いっちゅうわけだ。
ふううむ。そうやって人を糾弾していた自称エリートの方々は、今どうしておられるのかねぇ。。。
民俗学めいたものをやらせていただいていると、趣味が学問で、学問が趣味でというようにどっちがどっちだかわからなくなる。これもまた楽しい。旅行に行って、勉強になると云うんだからこんないい勉強はない。しかも、原稿を発表できる場はたくさんある。民俗学に限っては。オレのような駄文書き愛好家には非常にいい。これからの後半生は、こっちで生きていくと宣言してあるし、ますます自己を高められるというもんだ。
高められるというのは言い過ぎか。
低められているのかもしれないから。
だってオレの切り口は、様々であって、およそ文献至上主義の学者様のようにやるわけにはいかない。当たり前である。オレは学者とか研究者ではない。ただのじーさまである。田舎教師であったちゅうだけである。
中上健次の「枯木灘」に、そういうくだらない郷土史家が出てくる。笑った。得体の知れない男が、一気に大金持ちにのし上がり、同時に3人の女に子どもを作らせ・・・というような話が延々と出てくるのだ。それが、浜口という郷土史上の偉人を同じ名字だというだけで祖先に祭り上げて、石碑まで作ってしまう。その血縁関係をねつ造してしまうのだ。郷土史家が。これまた笑った。そんなもんでしかないのかと思ったのである。中上健次の問題意識としては。ということは、社会全体もそんな程度のものだと思っているだけなんだ、ふううんというような感想を持ったのである。
馬鹿馬鹿しいこっちゃ。
価値あるもんだと思っているのは、てめぇだけだという典型である。
さ、これくらいにして、出かけましょ。
お仕事、お仕事。
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