瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。
今日の瀬戸内寂聴先生のTwitter botからのコピーである。瀬戸内寂聴先生のみならず、いろいろな方々からbotという形式で、Twitterで情報をいただいている。感謝である。そして、これをお題に、駄文を書き始める。なんだか、小論文指導の大家もこのやり方に興味を持ってくださっているらしく、いろいろと交流もある。それはそうかもしれない。
① 与えられた限りある時間に、
② 思い残すことなく
③ 人をたっぷり愛しておかなければ
このTwitterは上記の三点が重要である。
なかなかのことが書いてある。
瀬戸内先生はかなりの高齢である。だから、こんなつぶやきをしたんだろうとは思わないことである。誰だって上記の①から③は当てはまるではないか。誰だって。
時間は全員どっかで無くなるのである。
死がそれを奪うのである。
そのことを常にワスレテはならないのである。まさかと思うが、オレは、ワタシは永遠のいのちを持っていると考えている人はいないだろう。でも、あれかな?仕事中毒の時期にあるときは、オノレの人生もそうだが、仕事も終わりがあって、有限であるとは思えないんでしょうなぁ。
だから、「思い残すことなく」なのである。
このことは自由奔放になにをやってもいいというのではない。ある程度の制限がないといけない。でないと破滅する。法律によって縛られていることをやっちゃぁいけないのだ。どーもそのあたりは、現代文学を読んでおるとそれもまたok、これもまたokと云われているようで胸くそが悪くなっちまうのだが(^0^)。
最後の「③人をたっぷり愛しておかなければ」というのも、真実であろう。
打算の無い心境でいることであるとオレは思う。闘争の人生を送っているつもりでも、そんな闘争者にも愛を持って接してくださる方はおられるんであるから。しかも、それはこっちからの積極的な行動のもとにあるというわけだ。なるほどなぁと思うのである。愛してくれるという受け身の姿勢でなくて、愛しておかなければという積極のこころであるのだ。これは尊いことを云ってくださっているものであるとオレは思うのだ。
この「人」を「孫」と言い換えてもいい。
孫とは、いつか別れなければならない。何年後かには、こっちが死んでしまう。ついこの間に、孫と初めて会ってから、まだ1年ちょっと。
もう縦横無尽に狭い茅屋を走り回っている。オレの書庫でも自由奔放に悪戯をしまくらちよこだ(^0^)。この孫が20歳の時に、オレは80歳。むむむ。。いのちは限られているのだ。むむむ。。なのだ。それを思うと、今が、限りなく愛おしい。無駄に過ごすことなかれである。無駄に。
そういう年になったっちゅうことだなぁと思うのだ。しみじみと。
今日も暑いのかなぁ。
こんな中でもオレは駄文を書き続ける。おそらく、城西国際を中退しても、この営みは永続していくのであろう。でないと、ただの暇人じーさまでおわっちまうから。
そうならないように頑張るしかないのだ。