きのうの失敗
レーニンの哲学ノート(岩波文庫)を捜していたら、あっという間に真夜中になっちまった。話にならんなぁ。書庫が狭いので、時々処分していたからその時に捨ててしまったのかもしれない。なに...
孫が来ていると、なにもできないってことを去年、喜んで書いていたっけ。。
(^0^)/ウフフ
きのうの失敗
レーニンの哲学ノート(岩波文庫)を捜していたら、あっという間に真夜中になっちまった。話にならんなぁ。書庫が狭いので、時々処分していたからその時に捨ててしまったのかもしれない。なに...
孫が来ていると、なにもできないってことを去年、喜んで書いていたっけ。。
(^0^)/ウフフ
[かわいい]
かわいいという言葉がある。
どのような場合に使われるのだろうかと思うことがある。孫に対してオレはよく使うなぁとしみじみ思う。なんのためらいもなく使うのだが、「ためらいもなく」という点が重要である。孫は圧倒的にかわいいからである。理由なんかない。ただひたすらにかわいいからである。
先日、ある女性政治家にこのかわいいを彼女のFacebookで連発していた多数の輩がいた。あふぉ~な男性諸氏もずいぶんいるもんだと呆れていたが、案の定、女性政治家を支援する男性に一喝されていた。いい加減にせーよ!というわけだ。政治的な行動を期待するのが、彼女に対する基本的な関係性のあり方であって、なにもかわいいだの、美人だのということとは無関係だと云う。当たり前である。
そんなもんで、女性を評価しているってことは、オノレのバカさ加減を天下にさらしているということになる。オレもバカだが、そこまでバカではない。
なんのためらいもなく、かわいいと連発できるのであろうか。そこには、ゼッタイすけべーこころという打算がある。だからできるワケがないとオレは思うのだ。オノレの原罪というモノを知るべきである。我々は、実に罪深い存在なのだ。誰だって、ただの一回も罪を犯したことが無いと云うことができるやつなんていない。オレだって、奥羽山脈の奥深くで育って、野いちごを盗み食いしたことがあったし、山の清流を泳いでいる川魚のいのちを奪って、焼いて食った記憶がある。スズメを山の中で、パチンコで打った記憶もある。決して、清廉潔白ではないのだ。もっとも、法律に違反するようなことはしていないけれども。当たり前だ。でないと、定年まで仕事することはできないから。
しかしである。かわいいと云うことで思うことがある。女性に対する評価として、特に相手が大人であったならば「かわいい」という言葉は、いかがなものかということを。
美しいとか、綺麗という言葉ならまだ許せる。綺麗という言葉は特にいい。
意味は以下のとおりだそうだ。
き‐れい【×綺麗/奇麗】
[形動][文][ナリ]
1 色・形などが華やかな美しさをもっているさま。「―な花」「―に着飾る」
2 姿・顔かたちが整っていて美しいさま。「―な脚」「―な女性」
3 声などが快く聞こえるさま。「―な発音」
4 よごれがなく清潔なさま。「手を―に洗う」「―な空気」「―な選挙」
5 男女間に肉体的な交渉がないさま。清純。「―な関係」
6 乱れたところがないさま。整然としているさま。「机の上を―に片づける」
7 (「きれいに」の形で)残りなく物事が行われるさま。すっかり。「―に忘れる」「―にたいらげる」
提供元:「デジタル大辞泉」
全部考えさせられる意味である。「綺」なるほど、「麗」。つまり、滅多にないほど、麗しいということなのだ。これはこれはすばらしい形容である。
特にオレの気にいった意味は、「5」である。
「男女間に肉体的な交渉がないさま。清純。」と書いてある。こりゃいい。現代小説と真逆である。綺麗な関係なんて小説にしていたら、売れねぇのだろうな。売るために書いているとはクチが裂けても云うつもりはないが、受け狙いの男女関係を書いてそれを収入にしているって部分も否定はできないだろうから。それは映画も御同様である。売るために、ラヴシーンを設定してやっているんではないかと勘ぐりたくなる小説も、映画もあるからだ。女優を見ているとかわいそうになっちまう。そうなの?そんなに、ラヴシーンに必然性があるの?とせせら笑いたくなる。 必然性とか映画の監督と出演者というのは、議論するのだそうだから。
そもそも必然性なんて言葉は、それが少なくとも後から付け加えられた場合には、いくらでもウソがつけるわけである。いかがわしいのだ。ホントカ?と疑ってオレは生きてきた。疑いがないと、論文なんて書けねぇ、書けねぇから。
(^0^)
オレもあれだ。
かわいいじじいでありたいね。
なんの打算もない、じつに綺麗な、清純なじじいでありたいよん。
もうなっているか。
わはははははは。
さ、今日は大学に登校するのだ。院生室に久しぶりに行く。図書館に本も返す。原稿書きもしてくるのだ。かわいいじじいとしてだ。
(^_-)-☆
まだ名がないものや生物に名を与える―単なる呼称では無く、まことの名を与える、これこそは人間が持つ能力の中で、もっとも人間の根源的なものだ。これにより、はじめて人と周りのものに関連ができ、その人にとり、その存在は初めて現実となる。 『エンデのメモ箱』
芸術と文芸が最上の意味で遊戯と内なる類縁関係にあるとすれば、芸術家や詩人はすべてを―おぞましいことも愛しいことも、俗なことも聖なることも、馬鹿げたことも至高の真実も―ひとつの遊戯に変える。そしてこの遊戯は芸術家や詩人には真剣なことなのだ。 『エンデのメモ箱』
哲学というのは、知を愛することであると、かのソクラテスさんは云った。そのとおりである。哲学で、ニヒリズムの快癒とか、絶望からの脱却とか、構造主義的にどうだらこうだらと云われてきた。オレもまたそ... goo.gl/EGNpR7
「十一面観音を水辺に立てることは、治水や利水の成果を示すため…先人を弔うためだったのではないか。あるいは町や村の近くまで押し寄せた津波や洪水の経験を記憶にとどめるためだったのではないか…」→畑中章宏『津波と観音』亜紀書房akishobo.com/book/detail.ht…
国際会議で学生が素晴らしい発表をして、指導教員に「あの学生いいね!博士過程なの?」と聞くと、指導教員が「いや、修士の学生で、もうすぐ卒業して就職しちゃう。優秀な学生が博士に行ってくれないんだよー」と嘆くのは、日本と台湾の大学教員でよくあること。
歴史の総体を裁きながら、しかも歴史の終末をしるしづける戦争そのものに対しても外部的であることで、終末論的なものは、それぞれの瞬間それ自体において、その瞬間各々の十全な意味を回復させる。つまり、一切の事案は、時が満ちて審理に付されていることになるのである。-全体性と無限-
ところで、国際会議で発表する学生は、欧米では博士の学生ばかりだけど、日本ではカリキュラムが早いので修士の学生も論文の発表します。海外では例外的に、台湾の学生も修士で研究発表をしますけど、これは、戦前の日本の統治の影響なんですかね。
自分の限られた留学の経験にすぎないけど、アメリカは理系の講義の宿題でも、チームで解かせるのは、日本とは全然違うと思いました。理系でも、講義の中でチームワークやリーダーシップを育成しているのは、日本も大いに学ぶべきだと思いました。
まあ、「日本の教育はダメ」とか言っている人は、中学入試の試験問題を自分で解いてみることをお勧めします。日能研や四谷大塚のHPから無料でダウンロードできるので。ビックリするくらい、難しいですよ。
民俗芸能STREAM新聞 is out! paper.li/souryukutsu/13… ? Top stories today via @dankichi0423 @tokusyuu @Shinjyukuku_Gui
新しい記事です。会社から支給されるITツールは常にトラブルのもとです
→サラリーマンのお前ら、会社のPC、携帯に気をつけろ!(常見陽平):The Workaholics hardwork.nifty.com/cs/catalog/har…
『太平御覧』のスキャンが終了したので、『ドキュメント 東京大空襲』のスキャンしてます。国は国土と国民を守るために強力な軍隊が必要だと言っていたわけですが、戦争とは、始まってしまえばそんなもの守ることなどできないことを見せつけてくれます pic.twitter.com/5ZgcI7Bqqt
採用。録られていることにより「怒鳴る」「脱線する」「寝る」が減る効果も期待できます。 RT @MJC_TPZ:eラーニングによくある授業を録画するシステムを利用して、議事録はビデオという訳に行きませんかね。
発想の転換から生まれる30代からのキャリア形成 :日本経済新聞 s.nikkei.com/14XEYBf「ソーシャルメディアの浸透で、個人であっても発信力を手にできるようになったのも大きいですね。世界に目を向けてニーズのある商品を作れば、買い手の幅も広がります」。うんうん。
このことは真実ですよん。さすがいいこと云いますなぁ。 RT@イチロー「失敗重ね、たまにうまくの繰り返し」 : スポーツ : YOMIURI ONLINE(読売新聞) yomiuri.co.jp/sports/mlb/new… … … #fb
■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。それは美しい風景の中を旅するようなもの。日没ばかり求めていては夜明けを見逃す。」【ブラックウルフ・ジョーンズの言葉】
いいなぁ、とてもいい言葉 RT@ネイティブアメリカンの名言 いい@Indianteachings 7分 ■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。#fb
小倉朗『日本の耳』での「間」の解説は表現よみの原理に応用できる。(1)「間」は「拍」と同様に予想されるもの、(2)「間」は「より長い時間のもとに成立する期待の感覚」、(3)もし「拍」を博動とすれば、「間」はより大形の呼吸の波――これらは、発声の姿勢、息遣い、声の緊張まで示唆する。