ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

新宮城址 Ⅱ

2013-03-08 05:00:00 | 田舎

目的のケーブルカー跡を見ることが出来たので、最初に決めたとおりになだらかな坂道を下山することにしました。目立つのはきれいなピンクの花が咲く木、3月の節句も近いことやし、桃の花かなと期待を膨らませます。

             

でも、桃の花ではなさそう、八重桜の感もありますが違うようです。やはり紅梅の一種でしょうか、まぁ梅なら南紀地方では満開は当然、だからもっと季節の遅い花が咲いていればラッキーと思ったのですが、それはそれで仕方ありません。

             

この木の植樹の趣旨が書かれていて、とても気になりました。書かれているのはこうです。“日本が太平洋戦争に敗れた50年前、この世に生を受け、戦後50年の歴史を平和の中に歩んできた我ら。永遠の平和を祈念し、ここ新宮の街の発展を願い、ここに植樹す。 昭和33年3月 千穂小学校卒業生”とあり、最後に“平成8年1月 有志”と付け加えられています。年数が少し大まかに描かれているようです。終戦を迎えたのは昭和20年、昭和33年に小学校を卒業したのは昭和21年4月~22年3月生まれの人でしょう。

             

昭和33年にこの梅の木を植樹した人たちの中の有志の人が平成8年にこの立札を建てたということだと思うのですが、平成8年は戦後51年に当たります。おそらくその前年からここに有った同趣旨の立札が古くなったので新しい立札を建てようと計画していて、文案も出来ていたのでしょう。まぁ50年でも51年でも大した違いはありません。

             

そんなことより重大に思ったのは、この平和の決意をされた人々(私より6年先輩になります)が、今尚その平和への願いを希求しているかどうかです。おそらく新宮の街でそのまま暮らした人より、都会へ出て行った人の方が多かったのだろうと思いますが、平和憲法を改憲しようとする内閣総理大臣や大阪市長などをいとも簡単に輩出する今の世の中をどう見ているのでしょう。千穂小学校とは神倉神社の入り口の手前にあった小学校です。

             

降りて来る道は広くて、ここは車で来る人の駐車場になっていました。駐車場があるならわざわざオークワの駐車場に停めなくても良かったのにと思ったのですが、NTTの前の道路を通って行くと、正面は門のある階段で、右側は工事中で進入禁止、左へ行けば速玉大社の方へ行ってしまい、新宮城址の駐車場には行けません。私はそのために新宮の街をもう一周してしまった挙句、オークワの駐車場に停めたのでした。

                       

公園内にこんな碑が建っていました。電話の自動化とは交換手の手を経ることなく、ダイヤルを回すだけ(こんな言葉はもう死に言葉になっています)で全国どの相手へも繋がるようになったのです。今は電場番号は回すものではなく、押すものになっていますが、尼崎で小さい子がダイヤル式のピンク電話をかけられずに困っていたのを見たことがあります。

全国の電話が即時で繋がるようになったのは昭和37年のことだったんですね。因みに各家庭に電話を付けるのに加入権と呼ばれた設置負担金(72000円だったと思う)を国民に払わせておきながら、一応の役目を果たした電電公社を解体し、資本家に利益を授けるようにと民営化したのは1985年、昭和60年のことでした。同じようなことが大阪市営の地下鉄でも行われようとしています。

             

なだらかな坂道を降りて来ると右側は工事中、先ほどNTTの前の道を通ると右側は工事中と書いたのと同じ工事です。戻ることも出来ないので、左の方へと歩いて帰ることにしました。するとこのような説明板がかかっていました。佐藤春夫の名前は知ってるけど、本など読んだことがないし、こんな風に小説の中であったものが今は無いと言われても想像しようもありません。

             

もう12時を回っていて、昼食をとらねばなりません。左側の丘の上にモダンな家が建っていました。よくよく考えてみれば新宮の街には何度も来ており、暫らく歩いていると見たことのある建物が現れてきます。

             

歩道に描かれた熊野古道の標識、速玉大社と阿須賀神社は訪れたことがあります。こうなれば王子神社(浜王子跡)も高野坂も佐野王子跡も征服しなければなりません。でもこの日一日で為そうなどとは思ってもいません。熊野古道の字の上の〇で囲まれた木の葉は速玉大社に植わっていたナギの木です。

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