次の3枚の絵は、藤子・F先生が若い頃に書かれた作品の複製原画を撮影したものです。左から「
ある日本人留学生からのローマ便り」(1954)、「
てぶくろてっちゃん」(1960)、「
すすめろぼけっと」(1964)という作品です。
この3作品を例に挙げたのは、たまたま複製原画集に入っていたからという理由でして、他にも同様のタッチを持った作品に、「
海の王子」(1959)、「
ゆりかちゃん」(1954) などがあります。これら藤子先生のデビューから10年程の初期作品を見て私が受ける印象は、絵柄が「
奥ゆかしい可愛らしさ」を持っているという点です。中~後期のタッチも大好きなんですが、この頃のタッチには、それらとも異なる味わいがあります。描線に独特な丸みを帯びていて、それでいて上品で、どこか
女性的な優しさを感じるのです。このタッチは、後期作品であるSF/異色短篇や「
T・Pぼん」などでも、ゲストキャラなどのデザインで、時折顔を出すことがありました。大まかに言えば「目」の表現なのですが、それと追随する仕草、表情の作りなども、後期作品の標準的な藤子・Fタッチとは明らかに違っています。
何故そんな話題を出したかと言いますと、つい先日、ようやく映画「
のび太の新魔界大冒険~7人の魔法使い~」を観まして、しずかちゃん、ドラミちゃん、美夜子さんなどの描写に、この時代の藤子(藤本)テイストを、ほのかに感じる可愛らしさを垣間見た…ような気がしたからです。
今回の映画は、女性の作画監督(
金子志津枝さん)が起用されていることもあってか、絵柄が全体的に可愛らしい雰囲気を持っています。
眼鏡を外した玉子さんや、
ジャイアンですら可愛いのです(笑)。特にヒロイン・しずかちゃんは、ちょっとした仕草や表情などが、とにかく可愛く柔らかく描かれていて、この映画の魅力の一つともなっています。奥ゆかしい中にも「子どもらしさ」がしっかり凝縮されていて、紅茶を飲む仕草など、とてもよく描けていたと思います。
実は、この「
可愛い」という表現が
クセモノでございまして(^^);
いわゆる「可愛さ」の基準などは、もちろん人それぞれなのですが、「大山ドラ」の後期にも、キャラの描き方を従来と大きく変えてみようとする動きがあり、
渡辺歩さんをはじめとする作画監督が中心となって、特にしずかちゃんを可愛く描いていたことがありました。このことは藤子ファンから歓迎された面もあったのですが、私自身はこの変化に少し否定的な見方をしていました。あくまで私自身の考えと断った上で書きますが、その「
可愛さのベクトル」が、藤子作品とは
別の方向を向いていたように思えてならなかったのです。
その後にスタートしたテレビ版の「わさドラ」では、キャラデザインが原作中期の絵柄に近づけて設定され、藤子タッチの可愛らしさが戻ってきたのは、私にとっては本当に嬉しいことでした。「のび太の恐竜2006」も、その路線を受け継いで作られました。(ただ「のび恐」に関しては、ちょっと崩しすぎな感じも受けました。このあたりは、
こちらの記事で触れています。)
今回の「新魔界大冒険」では、それに加えて、さらに初期の藤子作品のテイストも研究して作られたのではないかなと…。実際に映画を観てそのように感じたのです。実際のところどうなのかは分かりませんし、全シーン全カットがそうだったわけではなく、少し藤子タッチから外れたタッチのカットもありましたが、これくらいなら、私の中では十分に許容範囲でした。いわゆる「
やわらかドラちゃん」も、「のび恐」のわざと崩した作画と比較するなら、これくらいは全然アリかなと。部分的にドラえもんの柔らかさなどを強調していたとはいえ、全体的な作画は前作より安定していたように思います。それに動きも素晴らしかったです。これだけ小気味よく動いてくれると、観ていて気持ちが良いです。必要以上の無駄な動きもあまり感じませんでした。ぜひ来年も金子さんに担当して欲しいと思いました。
現代風の可愛い絵……まぁ「
萌え絵」と言い換えても良いかと思いますが(笑)、これは現代少女漫画から派生した構造を持ったデザインになっています。名劇の「少女コゼット」などは、完全にこの路線と言って良いでしょう。これらのタッチの絵柄について、別に私は否定も非難もするつもりはありません。先に書いたように「可愛さ」の基準などは人それぞれですから。ただ、私にとっての可愛い絵とは、その「流行」とは異なっていまして、まだ男性が少女漫画を描いていた時代…昭和20年~30年代の表現から派生した、どこか奥ゆかしい表現──すなわち、藤子・F先生の描かれるタッチなんです。私自身が漫画を描いたりする上で、特に「子どもらしい可愛らしさ」をどう表現するかということは、常に悩むポイントなのですが、今回の「新魔界大冒険」では、そういった方面からも何か一つの示唆を与えてくれたような気がします。(与えられた示唆を生かす力量が、私に備わっていないところが悲しくはありますが

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