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背広とネクタイを始末

2020-01-20 04:30:34 | Weblog

 おはようございます。

 4年ほど前まで出かけるときは背広かブレザーを着ました。もう背広もブレザーも不要です。捨てるのに忍びない背広はありません。夏用、合着、冬用を1着ずつ、葬式用の冬用と夏用を1着ずつだけ、合計5着にします。20着近く捨てるでしょう。

 背広を捨てますので、オーバーも捨てることになりました。結婚前にボーナスで買った給料と同程度のバーバリーは似合いますが危ない人に見えます。オーバーは傷んでおらず、捨てるのは惜しいですが、捨てることにしました。

 吊るしのゆったり目の安物背広が出張に適していました。機内で寝るのが楽でした。似合う背広はよそ行きでした。虫食いがあれば別ですが、多分なさそうです。傷んでいない高い背広も捨てることになりました。

 紺の背広が成城学園中高の制服でした。ネクタイの幅、ガラ、生地、締め方を先生が煩く、ワイシャツは白。悪ガキもネクタイとワイシャツの色や柄に注意しました。大学の野球部は詰襟でした。詰襟は襟が痛くて嫌いでした。

 野球部を辞め学生服も止め。高校の制服か東宝の叔父の上着に、グレーかベージュのズボン、銀の生地に赤と灰色の斜めスタライプのネクタイが私の勝負服でした。紺の上着が一番似合っていました。それらはさすがにもうありませんでした。

 当時東宝の撮影所勤務の叔父はお洒落が好きでした。成城大学の前で東宝重役に会い映画デビューを誘われたと彼に冗談を言い、驚かしたこともありました。重役は先輩のお父さん、その秘書さんが叔父の奥様でした。

 叔父は大学を出て東宝のニューフェイスを志願し落選。黒沢監督にチャンスを待てと言われ会社に入ったアホ。叔父は青大将に似ていると兄たちが評価。奥様は映画女優以上のスタイル、久我美子似の美人でした。叔父が病気になり苦労しました。彼の格好が私に最適でした。

 私は中学から定年まで何時もネクタイでした。苦しいとは思いません。ネクタイをすると勉強モード、仕事モード。だらしないネクタイの人を見ると可哀そうになります。緩く締めるならしない方がましだと高校で指導しました。残すネクタイは白と黒と地味な2、3本だけです。

 独身時代、冬のボーナスが出ると同期と日本橋三越に行きネクタイを買い、銀座ライオンで忘年会。高いネクタイも気に入らなかったネクタイも数回使いほとんど捨てました。シャープ時代の安物ネクタイだけが箪笥にあり、数本だけがすり減っていました。下手な買い物をしたアホでした。

 今日はここまでにします。

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